やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

ミニマリズム的享楽


 趣味にまつわる物事をミニマルな単位に分割し、その極小のものの集合として認識すると、素のまま楽しむのとはまた違った独自の享楽が醸成されてくる。今回はそういう話です。

 

 たとえば野球の試合。あれは完全にミニマリズムの世界だ。ミニマリズムの世界とは、ようするに「だいたい同じだけどちょっとずつ違う」ということである。
 野球は「だいたい同じ」ことの繰り返しだ。毎試合おおむね九イニングの攻防をするわけだし、ピッチャーが投げ、バッターが打ち、スリーアウトで交代となる。同じといえば同じなのだが試合結果だとか、個々のプレイだとか、メンバーは毎回微妙に違う。時々ファインプレーや珍プレーが飛び出したりもする。野球ファンはその微細な違いを味わうのであって、ある時は五アウト交代でその代わり五塁まであったりとか、ある時はビキニ美女が水鉄砲で戦ったりとか、また別の時にはロボットバトルになったりとか、そういうことを求めていない。野球は「ちょっとずつ違う」ことに醍醐味があるわけだ。

 

 遥洋子が『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』のなかで、論文を読むことを野球観戦に例えていた。毎日家に帰ってシャワーを浴び、ビールを飲みながら(とは書いていなかったかも知れないが)、今日の論文は面白いなとか、つまらないなとか、つまらないけど最後のほうで面白くなってきたなとか、最初は圧倒されていた論文の山が、読み慣れてゆくとまるで「さて今日の試合はどうかな」というような気分になってくるのだそうである。
 ある反復性の仮定の下で個々のコンテンツを認識し、消費してゆくこと――コリン・ウィルソンがモーパッサンの膨大な短篇群について、「牡蠣のように一ダースずつまとめて呑み込むべきもの」と評したような――これこそがミニマリズム的享楽のために必要なスタイルだ。

 

 そのように考えてゆくと、世にミニマリズム的コンテンツはたくさんある。
 一応、元祖であるミニマル・ミュージックを挙げておこう。極小単位の音のかたまりが反復されるなかで、徐々に変化したりしなかったりする玄妙な音楽。フィリップ・グラスやスティーブ・ライヒ、テリー・ライリーらが有名だが、個人的には『Minimal Piano Collectio Volume XXI-XXVIII』に入っているピーター・ガーランドの作品集が好きだ。

 

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 それから、ミニマリズム文学。村上春樹がそうだと言われているのを読んだことがある。
 確かに春樹作品においては、登場人物が料理したり、洗濯機をまわしたり、ラジオを聴いたりといった日常生活の反復的な部分が頻繁に描かれている(もっとも物語そのものは大抵、起伏に富んでいてミニマリズムとは言えないが)。こうした日常部分がクセになる、という意味での「ミニマリズム文学」ということなのだろう。

 

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 ミニマルなものは遍在している。そういう目で見れば、たとえば格闘技の動画などもミニマルなものだ。だいたい、最初に盛り上げるためのVTRがあったりなかったりして、入場、そして試合。大枠が決まっているなかでの展開の違いを楽しむ。
 それからyoutubeで、気に入った動画のシリーズをどんどん観てゆくとき。僕はファミコンやアーケードなどのレトロゲーム動画や、最近ではラップバトル、またきりんといううんちく系youtuberの動画を暇なときに「牡蠣のように」まとめて観る。
 またフォロワーさんに教えてもらったのだがインドの屋台動画のシリーズがあって、これは文字通りインドの屋台でいろんな料理を作るさまを淡々と撮影したものなのだが、いかにも印度亜大陸、その豪快かつおおらかな手つき、エキゾチックな細部につい引き込まれ、延々と関連動画を観てしまう。しかし言ってしまえば毎回違うのは作る料理と、あとたまに別の店に行くだけ。ごく稀に例外的シーンが入る(道路を挟んで一方が作った料理を投げ、もう一方がキャッチする芸が出てくるなど。大失敗して地面に料理がぶちまけられるのだが)。あれもミニマリズム的構造である。

 

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 そしてある種のアダルトビデオも。たとえばマジックミラー号はきわめてミニマリズム的である。同じ車内に代わるがわる女の子がやって来る。畢竟、視聴者の楽しみ方は「次はどんな子かな」という、冒頭で述べた野球の「今日の試合はどうかな」というのにきわめて接近する。あるいは全裸家政婦だとか、マシンバイブだとか、エビ反り痙攣ものなども同様、基本的に同じことを女の子だけを代えて繰り返すという構造である。
 三浦俊彦は『のぞき学原論』のなかで、トイレ盗撮ものをミニマリズムに例えている(!)引用しておこう。

 

 入れ替わり立ち替わり類似場面の繰り返しから成る金太郎飴的のっぺり構造は、アフリカの太鼓、バリ島のガムランといった民族音楽、そしてミニマルミュージックのような、分節を欠いた、つまり論理を欠いた、知性よりじかに体に響くプリミティブ刺激を本領とするものだろう。しかも覗き現場の息を潜める緊迫感は、流れゆく眼前の光景を一度見逃したら二度と同じディテールは取り戻せないという、「かけがえのない一回性」の連鎖で形作られている。どこで切っても同じような均質性反復性と、各々の瞬間が一回勝負の現場性・肉薄性・パフォーマンス性、この二つの一見矛盾した要素が合体した〈ランダムミニマリズム〉に、覗きの本質が開示される。

 

 ちなみに『のぞき学原論』は大変面白い本で、僕はすっかり三浦俊彦ファンになってしまった。ただし途中二章を割いてトイレ盗撮ビデオを論じた部分は、「この人社会的地位もあるのにこんなこと書いちゃって大丈夫かな」というほどドギツイ、臭気あふれる偏執的内容となっており、女性や正義感の強い方、うんこ嫌いには決してお勧めできないのだが。
 三浦俊彦は『環境音楽入悶』のなかで、ミニマルミュージックときわめてジャンル的に近しい(反復と微細な変化という構造を持っている)環境音楽について論じているし、同書には展覧会および格闘技についての章もあるのだが、いずれも学者の余技というにはあまりにマニアックな記述で、三浦氏の博識に感嘆を禁じ得ない。そして、格闘技については先程も述べたが、展覧会もまたミニマル的であることは論を俟たない(「おっ今回の展覧会はどうかな」)。

 

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 ようはこと趣味においては、作業単位をミニマルなものにしてしまえばなんでも楽しくなるのではないか? と最近思うのである。ゲーミフィケーションならぬ、ミニマライゼーション。

 

 読書にしてもそうだ。「おっ今度の本はどうかな」と。これは、本そのものよりもむしろ書評集を読んでいると、そのような楽しみに浸れる。本チャンの読書だと、ミニマリズムというには一冊一冊が長すぎるからだ。
 『現代思想』や『ユリイカ』のような「論文読み物雑誌」、あるいは章ごとに独立して読めるような本であれば、テクスト単位で認識・消化してゆくことでミニマル的な楽しみ方に近付くことが出来るのかも知れない(「おっ次のテクストはどうかな」)。そもそもミニマリズム的な本とそうでない本があるということも感じる。ともあれ、読書にどうミニマリズム的享楽を持ち込むかはまだ検討中である。

 

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 だいたい言いたいことはわかってもらえたと思う。こうしたものの根底には、ドラマチックな起伏に疲れた現代人の心があるのかも知れない。
 ドラマチックな起伏はドーパミン系だが、ミニマリズムはセロトニン系といってもいい。じっさい、こうした「反復的なもののなかの微細な差違を楽しむ」という行為には精神を安定させる効果もあるようだ。そういえば、ミニマルミュージックや環境音楽も「癒し」と見做されがちだし、村上春樹の日常反復描写にも少なからず癒しの要素があるだろう。またそれだけではなく、ミニマリズムには精神を恍惚とさせる、トランス的な作用もある。ゆったりくつろぎながらトランス的に恍惚となる。これはなかなか魅力的なことではないですか?

 

 本文ではあまり触れなかったが、この本も考えてみれば、かなりミニマリズム的要素を持っている。さまざまな作家が、一人ずつ出てきてはコリン・ウィルソンに「料理」されてゆくのだが、その手際にきわめて反復的なものを(いい意味で)感じるからだ。

Minimal Piano Collection

Minimal Piano Collection

  • アーティスト:V/A
  • 発売日: 2017/05/01
  • メディア: CD
のぞき学原論―-The Principles of Peepology-

のぞき学原論―-The Principles of Peepology-