やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

上野千鶴子さんにジジェクのことを質問してみたこと、あるいは性被害を語るときの問題(読書日録より)

 

 某月某日
 呉智英『知の収穫』に収録されている「読書日録」のなかに、石光真清『城下の人』について述べた次のようなくだりがあった。

 

 「この本には、著者の年齢を始めいくつかの不自然な点が散見する。だが、このことは証言につきものの錯誤や主観性の表れであり、かえって興味深い」

 

 これで思い出したのが、ジジェクがレイプ被害者の証言について『暴力 六つの斜めからの省察』で次のように書いていたことだ。

 

 暴行された女性の報告(あるいは、なんであれトラウマをめぐる語り)を誠実なものにするのは、事実を知るうえでの頼りなさ、報告にみられる混乱、矛盾である。もし犠牲者が自分の痛ましい屈辱的な経験について、証拠を矛盾なくつなぎ合わせ、明晰に報告できたとしたら、われわれはこうした特質自体によって、語られた真実そのものを疑わざるをえなくなるだろう。
 (中略)
 その不完全さは、報告された内容が報告の様態を「汚染した」ことを示しているからだ。

 

 以前、僕はこのことについて上野千鶴子に質問してみたことがある。

 2018年6月、ウインクあいちで行われた上野千鶴子他編『戦争と性暴力の比較史へ向けて』の刊行記念トークイベントの質問時間に僕は手を上げ、次のように尋ねた。

 

 「戦時性被害について、よく元従軍慰安婦の証言には矛盾があるといった批判を見かけるが、逆にジジェクのように矛盾しているからこそ信用できるといったかなり尖った擁護論もある。またJ.スペンス『ある農婦の死』が『聊齋志異』を史料に使ったり、アナール学派もしばしば文学作品を史料に使うのを見ても、どうも西洋人は歴史学にイマジネールなものを持ち込むことに寛容なようですが、これは日本の議論に見られる極端に実証主義的な態度とはずいぶん違うものを感じる。しかし正直、そうした西洋的な寛容さにこれでいいのかな? という不安も感じる。それについてどうお考えですか」

 

 で、上野さんの応答なのだが記憶に頼って書いているので一字一句正確なものでないことはご了解いただきたい。だいたい上野さんは次のように云っていた。

 

 「私はそのジジェクの主張とまったく同じことを『ナショナリズムジェンダー』のなかで書いてとても叩かれました。性被害体験を語るというのは、そういう矛盾や不整合込みで史料価値を持つものだと思っています。ただしそれは法廷の言葉ではない。法廷での勝ち負けとは別の、オーラルな歴史学という評価軸によって担保される史料価値です」

 

 法廷の(したがって賠償請求や加害者糾弾のための)言葉と、主体の訴えとしての言葉。

 この二つの視線のあいだのズレ、語る者たちと聞く第三者たちの間で生じるズレは、たとえば国内のツイッターの #metoo に対する強烈な反発(海外のことはよく知らない)を考えるさいにも念頭に置くべき話だと思った。

 僕もそのせつでは何度か#metooの人たちに反発したのだが、主体の訴えや実際の加害者にたいする糾弾までは理解できるものの、日本人男性一般への憎悪みたいになってくると、どうしても実証的な評価軸によってその語りを批判したくなってしまう心が生じる。そこには視線のズレが存在しているのだろう。

 

 トークセッション終了後に「『ナショナリズムジェンダー』を知らず不勉強でした」と云ったら上野さんに「いえジジェクのほうが私より有名ですからね。ジジェクのなんという本ですか?」と尋ねられたがその場では思い出せず、後日調べて上野さんと知己のあるフォロワーさんを介して連絡しておいた。他にも上野さんとは多少の会話があったがそれは別の機会に書く。

 


 某月某日
 そんなわけで『ナショナリズムジェンダー』の該当箇所を捜してみる。あー確かに。書いてある書いてある。

 

 オーラル・ヒストリーはたしかに、史料価値をめぐるいくつかの問題点がある。第一は忘却や記憶違いである。二つめは非一貫性である。口承にはしばしば前後でつじつまの合わないことが多い。三つめには記憶の選択性である。あることは覚えているがあることは意図的・非意図的に忘れることもある。四つめにはあくまでも回想、すなわち現在における過去の想起だということである。
 (中略)
 だが、フェミニスト史学の担い手たちは、「だからこそ証言にリアリティがあるのだ」という論拠にこれを反転した。女性史が信頼性の低い、イデオロギー的な産物であるという批判を逆手にとって、「書かれた歴史」とはいったい何なのか、と問いかえしたのである。「書かれた歴史」の書き手とは誰か。たとえば「正史」とは誰のためのもので、誰が書き手として権威を与えられるのか。
 (中略)
 『歴史学ジェンダー』の著者、ジョーン・スコットは「ジェンダー史」が「必然的に偏ったものになるだろうことを認識」している。[Scott 1988=1992:29]「ジェンダー史」が「偏ったものである」という認識は、返す刀で、これまでのすべての「正史」を僭称する歴史学に「おまえはただの男性史にすぎない」とその「偏り」を宣告するためであった。

 

 そりゃ炎上するでしょうね、これは(笑)

 この問題については、僕は今すぐ態度を決定することは出来ない。というかどうしても決定しなければならない瞬間までは決定したくない。ツイッターにしても、上野千鶴子支持の方にも批判的な方にも知り合いが増えすぎた。

 のんびり読書日録をつけるつもりだったがいきなりこんな話になってしまった。だがけっこう興味深い話ではないかと思うのでブログとして更新しておく。

 

知の収穫 (双葉文庫―POCHE FUTABA)

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暴力 6つの斜めからの省察

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戦争と性暴力の比較史へ向けて

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ナショナリズムとジェンダー

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