やすだ 😺びょうたろうのブログ仮

安田鋲倪郎(ツむッタヌアカりント@visco110)のブログです。ブログ名考案䞭。

サむバヌグノヌシス䞻矩に぀いお、その他

 

 幟人かの、このブログを読んでくれそうな人たちの顔を思い浮かべながら曞いおいる。
 じ぀は、今回でこのブログも癟本目になるので、ちょっずした反省をたず曞いおおきたい。このブログは、少々かたちを敎えすぎおいる。そのせいで曞くのも読むのも堅苊しくなっおしたっおいるんじゃないかず思う。理想を蚀うず、南方熊楠の土宜法韍宛曞簡のように、あるいは ベロアルド・ド・ノェルノィルの『出䞖の道』のようにこれに぀いおは以前ブログで玹介したこずがあるのでリンクを貌っおおく。ただそこでも曞いたように、けっしおこの本をお勧めはしない。滅茶苊茶読みにくいからである。ただ、この本の持぀ごった煮的、祝祭的雰囲気に匷烈に魅かれるのだ――そういう本も䞖の䞭にはある自由奔攟で気たたな曞き方がしたい。「颚呂に浞かるくらいの感芚」でスむッず曞きたいのだ。そのほうが、読むほうも「颚呂に浞かるくらいの感芚」でスむッず読めるのではないだろうか

 

visco110.hatenablog.com

 

 そんなわけで、これからは肩の力を抜いお曞くこずにしたので、時には定たったテヌマがなかったり、関係ない話が露店のがらくたのように䞊んでいたり、いきなり尻切れトンボに終わったりするかも知れないが倧目に芋お欲しい。掚敲もやりすぎだったので今埌は最䜎限にする。ちなみに先皋の「颚呂に浞かるくらいの感芚」ずいうのは、ワンマッチの垝王こずゞェロム・レ・バンナが、レッド・スコヌピオンこずアレクセむ・むグナショフの詊合に臚む態床に぀いお発蚀したものだ。「あい぀のメンタルはずんでもない、颚呂に浞かるような顔をしおリングに䞊がる」の意であるもしかしたらサりナだったかも知れないが。

 

 *

 

 さお、このずころ僕はずっず「サむバヌグノヌシス䞻矩」に぀いお考えおいる。
 「サむバヌグノヌシス䞻矩」ずはようするに、ネットに接続するこずよっお肉䜓を越えられるずいうカルトだ。サむバヌ空間ではなりたい自分になれる。瀟䌚的地䜍の䜎さや貧しさ、うるさい隣人、郚屋の汚さや宿題ずいったこずからも――宿題に぀いおは棚に䞊げる胜力が必芁だが――解攟されるし、幎霢も性別も矎醜すらも無芖できる「心のツケ」のこずはさおおき。そのうえ䜓臭もなければ排泄もしないのだ。少なくずも「衚珟」ずしお排泄を持ち蟌たない限りにおいお排泄はなく、サむバヌスペヌスにおける「排泄」は぀ねに有城ななにかである。

 

 この高揚感を最もよく描き衚しおいるのは、私芋によればマヌク・デリヌの次のようなくだりである。ある日突然アメリカにおいおは九〇幎代前半、サむバヌスペヌスは「䞖界で䞀番ファッショナブルな埅ち合わせ堎所」になった。

 

 電子的に肉䜓離脱した人間は、䞖界䞭で電子メヌルをザッピングし、リアルタむムな「チャット」でメッセヌゞを打ち蟌んではやり取りし、BBSの議論トピックやナヌズネットのニュヌスグルヌプに集たったりする。身を隠しお読みふけり、フレヌム蚳泚ニュヌスグルヌプなどで特定の人間に誹謗䞭傷のメッセヌゞを投皿するこずを詊み、あるいはROTFLOLRolling on the Floor Laughing Out Loud:床を転げ回っお倧笑いするする。たたは、ポルノ的な.GIFディゞタル写真を亀換し、匿名のたた「テキスト・セックス」の逢い匕きを楜しむ。たた、ネットに新たに登堎したワヌルド・ワむド・りェブにも耜っおいるこずだろう。このハむパヌテキストベヌスのシステムのおかげで、あるマルチメディア・サむトから別のサむトぞポむント・アンド・クリックで移動する、あるいはディゞタル・ビデオ・クリップからサりンド・クリップや画面いっぱいのテキストぞ無限に移動するずいったこずが簡単にできるようになったのだ。
 マヌク・デリヌ『゚スケヌプ・ノェロシティ』

 

 たた、そうしたサむバヌスペヌスの「堎所感」れアネスに぀いお。倧奜きな䞀節なのでぜひ読んでほしい。

 

 モデムを䜿っお電話回線を通じおバヌチャル・スペヌスに長時間接続する人々は、しばしば「堎所感」ずいう奇劙な感芚を報告しおいる。ある[電子]䌚議宀から別の䌚議宀ぞずさたよい歩き、進行䞭の議論を立ち聞きしおいるず、䞀皮迷宮的な通の廊䞋をさたよっお、郚屋から郚屋ぞ頭を突っ蟌んでいるのにも䌌た奇劙な感芚を経隓するずいうのだ。ロカずいうナヌザヌはこう語る。「WELLの玠晎らしい特城のひず぀は、「堎所」の感芚を珟実に䜜り出す点です。でも、実際に感じおいるのは䜕かの『䞭』にいるずいう感芚です。私は『どこか』にいるんです」。
 同曞、以䞋倪字は安田による

 

 「迷宮的な通」ずいう蚀葉に僕などは、ゎヌメンガヌスト城の芋事な挿絵やピラネヌゞ、モンス・デゞデリオ、あるいは『倱楜園』のパンデモニりムなどを思い浮かべおクラクラきおしたう。
 こうした「堎所感」は、初期のむンタヌネット環境である、

 ①ナヌザヌの絶察数の少なさによる遞民感

 ②非垞時接続ずくに日本においおは「テレホタむム」によっお時間垯が倧きく倜に偏っおいたこず

 ③回線速床の遅さがもたらす「距離」に䌌た感芚

 ④怜玢゚ンゞンが未発達でサむト探しは盞互リンクを蟿るのが䞻流だったこず

 ⑀画面が黒っぜく画像が少なかったこず

 ずいった諞々の制玄が解消されるずずもに消えおしたった感もあるが。

 

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ゎヌメンガヌスト城挿絵 

 

 さきほど僕はサむバヌグノヌシス䞻矩を「カルト」ず蚀った。カルトずいうず蚀葉がキツいかも知れないが、実際に批刀者にずっおはサむバヌグノヌシス䞻矩には倚くの問題点があるずいう。私芋では、そうした批刀は䞉皮類に倧別されるように思う。

 最もわかりやすいのは䟝存症的な問題の指摘だ。ネットにハマるあたり、服装や身だしなみに気を遣わなくなる、食事がいいかげんになる、倖出しなくなり人付き合いが悪くなるそれのどこが悪いんだ、ずいう反論は埌々怜蚎する、ペットボトルに小䟿する、他人や瀟䌚に無関心になりドロップアりトする、あげくにぶっ倒れお死ぬ。ただしこのレベルの批刀は、ずくにサむバヌグノヌシス䞻矩を想定せずずも䟝存症䞀般に察しおよく芋かける議論ではあるいく぀か読んだなかではデむミアン・トンプ゜ン『䟝存症ビゞネス』が脳が䟝存症に陥る仕組みをわかりやすく説明しおいお出色だった。

 

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花沢健吟『ルサンチマン』より

 

 それから、しばしば人文孊系の曞き手によっお提瀺される、おいよく〈システム-䜓制〉にコントロヌルされる無気力な人間になるのではないかずいう危惧もある。
 山内志朗によれば、犅、ハックスリ、クリシュナムルティ、シャルダン、そしおヒッピヌなどに代衚される六〇幎代の「新しいグノヌシス䞻矩」には、科孊技術があたりにも瀟䌚に浞透し信仰されるこずに察する譊戒心があった。ずころが、

 

 䞀九八〇幎代以降、〈新しいグノヌシス䞻矩〉には、反科孊䞻矩の色圩を持たない流れが付け加わっおくる。電子メディアの時代が始たるのだ。電子メディアが、身䜓性の消倱、少なくずも身䜓負荷性の軜枛を目指しおいる以䞊、珟代は電子化されたグノヌシス䞻矩の時代ずいうこずもできよう。
 山内志朗『倩䜿の蚘号孊』

 

 ずいうのである。

 そしお第䞉のレベルの批刀ずしお、グノヌシス䞻矩のテロリズムぞの芪和性に぀いおの疑惑がある。぀たりオりム真理教であるずか様々なカルト集団が起こした事件、さらには酒鬌薔薇聖斗的なものぞの接近。
 山内志朗は酒鬌薔薇こず少幎Aのいう「透明な存圚であるボク」ずいう文蚀に倩䜿䞻矩山内はこの蚀葉を「新しいグノヌシス䞻矩」サむバヌグノヌシス䞻矩ずほが同矩で甚いおいるを読み取っおおり、その危機感が『倩䜿の蚘号孊』を曞かせたずいっおもよい。たた、オりム真理教の仏教理解にはグノヌシス䞻矩的傟向があるずいった指摘『それでも心を癒したい人ののための粟神䞖界ブックガむド』。

 

 実際、サむバヌグノヌシス䞻矩にたいするこうした批刀、諫め、お説教めいた蚀説はかなり頻繁に芋られるもので、あたりのフルボッコに可哀想になっおくるほどである。
 山内の他にも、先日のブログで玹介したハむデガヌ䞻矩やそれを匕甚するゞゞェクにしおもそうだし䞋蚘リンク参照、ノヌレン・ガヌツのニヌチェ䞻矩的なデゞタル文明批刀も同じ粟神朮流に属するであろう。それからサむバヌカルチャヌの䌝導者マヌク・デリヌや「サむボヌグ・フェミニスト」のダナ・ハラりェむのような、䞀芋サむバヌグノヌシス偎に加担しおくれそうな人ですら、結局のずころそうした「お説教」を述べおいるのである。幟぀か匕甚しおおく。

 

 穢れた珟実・䞖界を拒吊し、倱われた玔粋性を垌求し、そこに回垰しようずするのは、傲慢の眪であろう。受肉ぞの呪詛は、䞖界の存圚ぞの呪詛ずなるからだ。「私は生たれおこなければよかったのだ」、「私は存圚しない方がよいのだ」ずいう思いは、自己の砎壊・䞖界の砎壊のいずれかに垰着する傟向を有しおいる。自暎自棄こそ「だからみんな死んじゃえ」ずいう思いに぀ながる眪悪だ。
 山内志朗『倩䜿の蚘号孊』

 

 二元論は、身䜓から意味を取り陀こうずするこずで、身䜓を「人にずっおどうでもいい郚分」ずしお切り離す詊みだ。すなわち、人の真の「セルフ」は䞍死の魂だから、死を免れない肉䜓は牢獄以倖の䜕物でもなく、われわれはそこから逃れなければならない、ずいうわけである。ここに、ニヌチェが仏教ず二元論の䞡方に芋た共通点、぀たり逃避がある。痛みや感芚だけでなく、人間である意味からの逃避だ。
 ノヌレン・ガヌツ『ニヒリズムずテクノロゞヌ』

 

 サむバヌ昇倩幻想は砎滅的な誘惑であり、自然砎壊、瀟䌚組織の解明、テクノロゞヌ・゚リヌトず最䜎賃金の倧衆ずのぞだたりの拡倧などから私たちの目を逞らすものだ。瀟䌚問題、政治問題、環境問題の重みこそが、生物孊や重力や二〇䞖玀からポストヒュヌマンが離陞するのを抌し止め、地球に匕きずり戻すのである。
 マヌク・デリヌ『゚スケヌプ・ノェロシティ』

 

 私たちが生きおいる人間の脆さを深く真正面から感じるこず。぀たり、私たちが珟実に死ぬずいうこず。私たちが珟実に互いを傷぀け合うずいうこず。地球が珟実に有限であるずいうこず。私たちが生きおいける惑星は、知る限り地球以倖にはないずいうこず。脱出速床゚スケヌプ・ノェロシティなどずいうものは死に至る幻想であるずいうこず。
 同曞より、ダナ・ハラりェむの発蚀

 

 いやはや、これはたさにサむバヌグノヌシス䞻矩を打倒するための神聖同盟ではないか。
 そしお、極め぀けが前回のブログでも匕甚した、ゞゞェクによるこの文蚀だ。

 

 われわれが実はこの䞖に「投げ蟌たれおいる」ずしたら、そこでは決しおしっかりく぀ろげるこずはないのだずしたら、い぀も本来の䜍眮からずれおいお、「関節が぀ながっおいない」ずしたらどうだろう。このずれがわれわれを構成する原初的な条件、われわれの存圚の地平そのものだずしたらどうだろう。前にいた「故郷」などなく、そこからこの䞖に投げ蟌たれたわけではないずしたら、そしおたさにこのずれこそが、脱-自的に䞖界ぞ開けおいく人間の根拠だずしたらどうだろう。
 ゞゞェク『信じるずいうこず』

 

visco110.hatenablog.com

 

 これは単なる「珟実逃避には必ずツケがたわっおくる」ずいったお説教ではない。我々が䞖界ず自己の関係をどう捉えるべきかの展望たで瀺しおくれおいる。今のずころ、グノヌシス䞻矩ぞの応答ずしおは僕はこの認識を越えるものを知らない。

 

 *

 

 しかし、䞀方ではサむバヌグノヌシス䞻矩的に生き、そしお死んでゆくこずの䜕が問題だずいうのか ずいう立堎もある。
 ゆうお自分はサリンを撒くわけでも小孊生の銖を校門に晒すわけでもないし、尿はトむレでするしそれなりに自炊くらいはするし数ヶ月に䞀床、矎容院にも行く。そこでは「前柀さんカッコむむですよね」ずいわれれば「あヌ、たあ、そうですねはい」ず頷き、それはそれで興趣もあるかな、ずツむヌトしおほのがのず笑ったりもするのだ。
 ネット、ずくにSNSはげんに、僕たちの䜓隓や可胜性を飛躍的に拡匵しおくれおいるではないか のめり蟌んで䜕が悪い ずいう。たあ皋床の問題なのかも知れないが。
 ノヌレン・ガヌツはさきほどのデゞタルな二元論さきほど「サむバヌ昇倩䞻矩」や「倩䜿䞻矩」ずいう蚀葉が出おきたが、他にも「デゞタル異教埒ペむガニズム」ずかなんだずか論者によっおちょっずず぀蚀い方が違っおいるのだがようするに珟実嫌悪・肉䜓嫌悪をIT技術によっお解消しようずする思想はサむバヌグノヌシス䞻矩ず総称しおよかろうにたいする批刀を次のように続けおいる。

 

 私たちが涅槃を求めたり、ネットフリックスのビンゞりォッチングに芋出す意味は、私たちが暮らすこの䞖の䟡倀を䞋げ、その䟡倀を別の䞖界に転嫁できるこずを瀺しおいる。それは別の䞖界、すなわち空想の䞖界であり、自分が自分でいなくおいいように、私たちが創造した䞖界だ。
 ノヌレン・ガヌツ『ニヒリズムずテクノロゞヌ』

 

 これは映画『マトリックス』で、サむファヌずいう裏切り者圹が問いかけた問題でもある。「仮想䞖界で幞犏なのず、荒涌ずした珟実䞖界に盎面するのず䞀䜓どちらがいい」 
 2004幎に刊行された『珟代思想 特集マトリックスの思想』のなかで、論者たちがしばしばサむファヌに぀いお蚀及しおいるのは、この問いぞの関心の高さをあらわしおいるようで面癜い。
 たずえばコリン・マッギン。圌はマトリックスを子宮のような、心地よい倢の空間であるずしおいる。

 

 映画の䞭で、人類は「〈倢〉を芋おいる」のだず繰り返し述べられおいる。マトリックスによっお䜜られる心理状態は倢芋状態なのだ。それに応じお、人類は胎盀を思わせる桶の䞭で萜ち着きながら眠っおいるものずしお衚珟されおいる「マトリックス」はもずもず「子宮」を意味しおいたこずは芚えおおくに倀する。぀たり、人類は実質的に倢芋る胎児なのだ。
 『珟代思想 特集マトリックスの思想』所収、コリン・マッギン「倢芋る人類の母なる子宮」

 

 そのうえで、マッギンはいう。

 

 サむファヌは真実の実甚䞻矩的プラグマティック理論に関する問題をも提起しおいる。圌は真実に過床の評䟡が眮かれおいるず断蚀した。ずいうのも、たずえ本物でなくずも、圌は矎味しいステヌキを奜むのである。圌は自ら望むものを埗る、ずいう実りある経隓をしおいる限りにおいお、自分の信念が真かどうかなど、気にも留めないのである。
 䞭略
 確かに、圌の考え方は䞀理ある。䞀旊、幞犏の䟡倀から分離された真実の䟡倀ずは䞀䜓䜕なのであろうか マトリックスが提䟛する倢にただ享ずるのではなく、ただ単に自分の信念が〈真〉であるかを確かめるこずだけに、自分の呜を危険にさらす䟡倀は本圓にあるのだろうか 仮想珟実が極めお安党で心地良いものであるずき、残酷な珟実ずの接觊に死ぬだけの䟡倀があるのだろうか 知識ず幞犏、どちらがより良いのであろうか
 同曞

 

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 【远蚘】ただし、映画『マトリックス』をグノヌシス䞻矩的に解釈した堎合、䞻人公ネオの属するモヌフィアス䞀味をグノヌシス䞻矩者偎造物䞻の぀くりだした停の䞖界マトリックスを超克しようずする立堎ずし、サむファヌはそこからの離反者停の䞖界に恭順する立堎ず捉えるのが暙準的である。

 歎史的に二元論者は必ずしも快楜の瀌讃者ずいうわけではなく、カタリ掟などを芋おもあきらかなように、肉䜓欲望吊定の垰結ずしお激しい犁欲䞻矩的立堎を取る堎合が倚い。

 ぀たり、サむバヌグノヌシス䞻矩ず埓来のグノヌシス䞻矩を分か぀違いずしお、サむバヌグノヌシス䞻矩においおは犁欲䞻矩的なトヌン、および真実ぞの志向は埌退し、その珟䞖嫌悪・肉䜓嫌悪をむしろ陶酔的・虚構的な快楜で埋めようずする傟向があるように思う。ネットサヌフィンしかり、SNSしかり、ビンゞりォッチングしかり、オンラむンポルノしかり  。

 

 *

 

 いやはや、なんのかんのでい぀ものブログのようにわりず敎然ずしおいるのは、なかなか癖が抜けないものだなず思うのだが、䞀蚘事あたり3000字ほどにしたいのに既に匕甚含めお5000字オヌバヌしおいるのも悩たしいずころだ。いや、長さのこずは奜きなようにすればいいか。

 

 そんなわけで、「仮想䞖界での幞犏ず珟実䞖界での苊痛ずどちらを採るか」ずいう二択仮想䞖界を遞んだ堎合はここが仮想䞖界であるずいう認識も消えるものずするにさらされた時、前者、぀たりサむファヌ的な遞択を自分もしないずいう自信はない。ずはいえ、珟実を認識しそれに目を向けるずいう、矎食やら性欲やら䜕やらに察しお䞀段抜象床の高い䟡倀も、自慢ではないがたったくわからないわけではないので、本圓に珟時点では決めかねる。


 䞀番いいのは、珟実ず快楜が同じ偎にいおくれるこずだ。そしお虚構ず苊痛が同じ偎にいおくれれば䜕ら迷うこずはないのだが。
 あたらめお問うが、酩酊や虚構に耜溺するのはそんなに問題なのだろうか われわれが目を向けるべき「珟実」ずは䞀䜓䜕なのか。それは䜕をしたずきに感じられるものなのか。さらには、酩酊や虚構も䞀぀の珟実ではないのか――ずいったさたざたな理屈が浮かんでくる。なあどうなんだ、ガヌツよずりあえずガヌツの『ニヒリズムずテクノロゞヌ』はわれわれのネット挬けのラむフスタむルに぀いお色々鋭い指摘があっお面癜いので、匕き続き読む。

 

 さおグノヌシス䞻矩サむバヌグノヌシス䞻矩含むに぀いおは、ゞゞェク『信じるずいうこず』の提蚀によっお僕のなかではいったん打ち砕かれたのではあるが、こうしお日々誘惑を感じ続けおおり、ずもすれば批刀者の蚀うこずがこずごずく「お説教」に聞こえおくるずいうのは、結局のずころ僕のなかでグノヌシス䞻矩の残り火が燻り続けおいるのであっお、それに燃料を䞎え続けおいるのは間違いなく日垞生掻の倊怠感、無力感、違和感なのだろう。倧人になりきれない、あたりよくない意味での〈むノセント〉な自分がそこにいる。

 

 

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