やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

オナニーもできやしない

 

 

 ※注意! このブログは中年男性のオナニーについて触れています。苦手な方はブラウザの「戻る」ボタンを押してください。

 

 ところで、これまでの諸研究は、一番重要なことを不当に無視してしまっているのではないだろうか。それらが言及する人間の性、そして、自慰とは、この私自身をも含むわれわれの経験に他ならないということである。われわれは、それに対して決して潔癖であったわけではないのだ。それは、動物や植物のそれのような客観的な事実であるより先に、われわれの主体的経験的な事実なのである。
 (金塚貞文『オナニスムの秩序』)

 

 ……だとか、南方熊楠の土宜法竜宛書簡にいう「一人の考えは一千万人の考え」という言葉に励まされて書くのだが、僕はオナニーが出来ない日が時々ある。それは特定の心理状態の日である。

 たとえば明日の仕事に非常な困難が予測され、憂鬱な夜。身体は健康だし弾丸も充填されているのだが、気分的にオナニーしたくない。性欲的な意味ではしたいのだけれど、今すると目の前の困難事から逃げているような気がして、そういう自分が嫌になるのでオナニー出来ないのである。
 けっきょく、仕事を無事やりおおせ(「案ずるより産むが易し」という諺はかなり真実だと思う)、意気揚々と帰ってきてから、昨夜たまってゐた分まで豪勢に発射することになる。

 

 けれど、もっと長い期間、オナニー出来ない状態が続いたこともあった。約一年間、まったくしていないということはないだろうけど、前後と比べるとひじょうに過小かつ不安定な時期があった。忘れもせぬ2011年である。

  2011年、それは東日本大震災の年だ。日本を襲った未曾有の災厄のショックで僕は一時的なオナニー不全になった……という話ならそれはそれで深いテーマになりそうだがそうではなく、その年、職場の人間関係が最悪になったからというのが実情だった。

 かいつまんで言えば、年の頭に入ってきた従業員が、なぜか僕のことを嫌い、なにかと執拗な嫌がらせを受けたというのが原因だった。新入りなのに誰も逆らえないオーラを出し、たちまち職場を半ば以上支配したのも今にして思えば特異な人物だった。

 僕は夏頃には自宅のトイレの窓から見える竹やぶで首を吊ることを想像し、秋には妻の勧めで、「自分は一生そういう所とは関係ないだろうな」と思っていたメンタルクリニックに初めて通ったりした(これは秋以降なので薬のせいでオナニー出来なかったわけではない)。

 

 その頃、思いあまって父に相談したことがある。大人になってから、源泉徴収票の書き方とかそういう話ではなく心の問題で父に相談事をしたのはたぶんこの時だけだ。すると僕の話を聞いた父はこう言った。

 「大丈夫。その従業員はすぐやめる。絶対に長く続かない」

 なぜそんなことがわかるのか、と問うてもはっきりした理由は示されなかったが、とにかく長年生きていてそれがわかるのだ、その従業員はすぐに誰かと揉めてやめてゆく、と強調するのみだった。

 果たしてその通りになった。その従業員はまる一年で、他の社員と喧嘩してほとんど衝動的に辞めていったのである。

 今にして思えば、これは偶然当たっただけで父にはなんの根拠もなかったのだろうと思う。ただ僕が弱りきっているのを見て、希望を持たせるために「その従業員はすぐやめる」と力強く断言したのだ。以降、僕も半信半疑ながら心の支えにしていた部分があった。つまり、父のアドバイスは事実かどうかという意味では根拠薄弱なものだったが、「何を言うべきか」という意味では正しかったのである。

 

 話を戻すと、2011年はオナニーしようにもその従業員の顔が思い浮かんで、自分が現実に太刀打ちできずみじめに性的世界に逃げているような気分がしたので、そういう気分でオナニーするのは嫌だと思い、しなかった/出来なかったのである。

 オナニーを「自慰行為」ともいうが、慰められることによって人はよりみじめになる時もある。そもそも普通の悩みにしても、僕は慰められるのをあまり好まない。どうしても愚痴りたいときは面白い話風に、長くなりすぎないように話すといったスタイルを好む。このへんの事情は以前のブログに書いた。

 

visco110.hatenablog.com

 

 ただ、オナニーについてはあくまで個人的な心理であって、「そうでなくてはならない」という話ではまったくない。気にせずやれるならどんどんやればよいと思う。オナニーのノーマライゼーションは、ハヴロック・エリスの登場で飛躍的に進み、1930年代にはほとんどの先進国で共通認識となった。何も害もなければ罪もありはしない。楽しんでください。

 

 そんなわけで、従業員の去った2012年はひじょうにオナニー三昧の一年になったのである。

 ある人は、僕がその従業員に負け続けたというが、僕のなかではそうではなかった。僕のなかでの勝負はあくまで「どちらが先に辞めるか」だったのだ。そして相手が先にやめた以上、僕の勝ちである。2012年のオナニーは勝利のオナニーだった。

 

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 ニコラ・プッサン『バッカス祭』(1632-33)

 

 いまでも、年に数度、そんなような事情でオナニー出来ない日がある。何か現実に太刀打ちし難いものがあってくよくよしている時。近頃はメンタルが強くなってきたというか、色々と達観してきたのでそんな日も減りつつある。でも今年でも一度か二度はそんな日があった。


 僕にとってのオナニーとは、現実を克服している、少なくともそれに最低限の立ち向う姿勢を見せている、と思わなければ出来ないものなのだ。しかし、それは少し不自由なことだ。現実から逃げたい日こそオナニーできるようになれば、もっと自由自在なのだが。

 

 さて、そういう気持ちわかる奴おる? みなさんはどうでしょう。

 

 追記:こうした現象は男性ホルモンであるテストステロンの効果によって、あるていど説明できるかも知れない。

 テストステロンが男性の性衝動に強い影響を与えることは知られているが、このホルモンは、勝負事に勝った時や、自信をつけたときに高まる性質がある。

 サイモン・アンドレアエの紹介する実験によれば、テニス選手を対象にした実験では、試合に勝った選手はテストステロンのレベルが高まり、負けた選手は低くなったという。また、見習い将校を対象に行った調査では、辛い下積みの渦中よりも、それが終わりを迎える時期のほうがテストステロンのレベルが高くなるという。

 これは僕の解釈だが、テストステロンの分泌量がなぜ変化するのかというと、つまり「勝てている」=周囲に脅威が見当たらない時は、その勢いでテリトリーを拡大し、異性の獲得に向かえというゴーサインが出るのに対し、「負けている」=自分より強くて危険なものがいる時には、生存を最優先し、異性を獲得しようとする行為を一時的に控えるモードに入る、ということではないだろうか。

 

オナニスムの秩序

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男はなぜ新しい女が好きか?―男と女 欲望の解剖学

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