やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

ヒポコンデリー/人体の脆さと死の運命

 

 ※注意! 本稿は心身の疾病について医学的な責任を負うものではありません。あくまでエッセイとしてお読みください。

 

 アルガン「ピュルゴン先生が申されるには、用心しなくなったらたった三日でお陀仏だと」

 (モリエール『病は気から』)

 

 心気症、ヒポコンデリーというのは、ちょっとした体調不良というほどでもない体調不良に、いちいち「なにか自分は重篤な病気にかかっているんじゃないか」と怯える精神疾患のことである。

 

 DSM-4までは心気症(Hypochondriasis)という呼称だったが、DSM-5からはより明確化をはかって病気不安症(Illness Anxiety Disorder)という呼称に代わった。DSMは実用的な診断基準を提示するものなので、加えて「病気にかかるあるいはかかっているとの思い込みが6か月以上持続しており、それが著しい苦痛や機能の障害を呈している」という条件が付く。
 弘文堂『増補精神医学事典』によると、癌、ハンセン病、梅毒、結核などにかかっている、と思い込む例が多いようだ。

 

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 さてそんなヒポコンデリーだが、実は一時期、僕自身がヒポコンデリーにかかっていたことがある。診断されたわけではないのだが、どう考えてもそうとしか思えないのである。

 

 きっかけは、母が癌で亡くなったことだった。早いもので、もう十年以上前になる。
 母の闘病生活は、医療的にも最善を尽くし、自宅療養に切り替えてからは家族の手厚い介護をうけつつ、最期は父に看取られながら安らかな死を迎えたという感じで、その点については後悔はない。
 母が幾つかのあやしげな代替医療に引っ掛かり、大金を払って気休めを買ったことは、僕のなかに代替医療に対する強い嫌悪感を生じせしめるに至ったが、それで本チャンの医療を拒否して命を縮めることはなく、財産をすっかり失うといったこともなかったので、まあ些細な瑕疵とは云える。

 

 そうして母を失ってから一~二ヶ月後のことだ。
 職場にいても家にいても、どうも胃が少し痛いような、そうでもないような感じがする。それが何日経っても消えず、「よもや自分も癌なのではないか?」と居てもたってもいられなくなり、病院へ行き胃カメラで見てもらったが、とくに異常は見つからなかった。

 

 さらに数か月後、今度は血便が出る。これも「もしかして腸に癌があるのかも知れない」と慌てて病院へ行き、検査してもらったところ、単なる切れ痔だった。

 

 そんな感じで、母が亡くなってからしばらくの間、何かちょっとした不調があるたびに自分は癌なのではないかと不安になり、一日中そのことばかり気にしてしまう、という状態が続いた。
 ようやく、少しくらい体調が悪くてもそこまで恐怖を感じなくなったのは、母の死から数年経ってからであった。

 

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 *

 

 先日、テレンス・ハインズの『ハインズ博士再び「超科学」をきる』を読んでいたところ(前々々回のブログでもまったく別件で引用したが、とても面白くてためになる本だ)、ヒポコンデリーについて次のように書いてあった。

 

 どんな時でも体のすみずみまで調べれば、少しの疼きや痛みやかゆみなどの症状を見つけることができるが、それらはいずれも普通は気にしていないし、とるに足らないものとして無視される。だがヒポコンデリーになると、こうした小さな疼きや痛みに注目し、心配し始める。「ああ、喉が痛いのはたぶんがんの徴候だ!」こんなことを考え始めると当然ながら不安に陥る。まさにその不安がたとえば動悸、胃の変調、発汗、そして微熱と言った他の徴候を生み出すのである。

 

 完全にあの頃の自分やん。

 

 なるほど頭のてっぺんから爪先まで、どんな些細な不調も一切ない、という人などいるはずがない。いやまったくいないことはないかも知れないが、それは家の中にある家具すべてが故障していないばかりか傷や不調の一つもないだとか、住んでいる街で道路工事や建物の補修工事をしている箇所が一ヵ所もないといった、ひじょうに不自然な話なのだ。
 人体とはそのように出来てはいない。人体とは、日々受けたダメージを修復しつつも、その繰り返しのなかで次第に老朽化してゆき、最終的にはどうにも修復しきらずに故障する(死ぬ)存在なのだ。
 さてみなさんもここで、頭のてっぺんから爪先まで、身体の状態を意識してみましょう。どこか一つか二つくらいは、ちょっと痛んだり疼いたり違和感があったりするはずです。大丈夫、それが普通です。

  こうした人間身体の本来的な脆さについては、『増補版精神医学事典』に次のような記述がある。

 

 人間学的見方からは、身体への憂慮は人間の原不安であり、心気症になりうるという可能性は人間精神の固有の弱さである。しかし健康な身体性とはその身体を意識しないところにあるが、心気症者にあっては、身体のもつこの不確かさや死に至る運命を拒否しようとしており、その葛藤の本質に存在への信頼の危機や超越性(Transzendesz~Trotzdemへの転回)の欠如をみようとする。

 

 噛み砕いて云うと、ヒポコンデリーというのはとても「人間らしい精神疾患」である。たしかに動物も死を恐れはするが、「死に至る運命」を怖れ、それについて悩み、出来ることなら逃れたいと願うのは人間だけである。
 ヒポコンデリー症者は、意識のうえでは癌やエイズなどの具体的な病気を怖れている。しかし、彼らが本当に怖れ、拒否しているのは「身体の不確かさ」や「死に至る運命」である。
 こうしたヒポコンデリー症者の葛藤は、人間の普遍的な葛藤である「存在への信頼の危機」や「超越性の欠如」を、純度を高め顕在化したものである、というわけだ。

 

 なお、クルト・シュナイダーによる「原不安」概念は、ヒポコンデリーに相当する「疾病妄想」の他に、「貧困妄想」「罪業妄想」を併せた「鬱病の三大妄想」を説明するためのもので、一時は鬱病の妄想を扱った論文で原不安に触れないものはないというくらいに流行したそうだが、シュナイダーは「原不安」について委細に述べてはおらず、またそのつもりもなかったのではないか、という批判もある(芝伸太郎『日本人という鬱病』)。
 してみると「原不安」概念は、わからないものにとりあえず名前を付けてみただけにすぎない――本能とか、フロギストンとか、アジア的生産様式といったような――のかも知れない、ということについては留保しておきたい。

 

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 また、DSM-5の実践的注釈書といえる『精神科診断戦略 モリソン先生のDSM-5徹底攻略case130』に、病気不安症についての症例が乗っている。
 そこに出てくる「ジュリアン・フェンスター」という患者は、遠く離れた大学に進学したが、一学期が終わったところで「主治医と離れたところに暮らすのは危険だ、いつ心臓病になるかわからないから」(大意)という理由で実家に戻って来てしまった(おそらくそのまま退学したのだろう)。
 ジュリアンは医学的にどこも悪いところはなかったが、つねに心臓病の不安に怯えていた。ラジオで心臓病について放送していると、ぞっとして食器を落としてしまい、割れた食器を片付けないままバスで病院に向かったこともある。そして彼は、

 

 食事に関する情報をインターネットで調べるのに数時間かけ、ディーン・オーニッシュ(訳注:低脂肪の食事療法による生活習慣病の改善を提唱している医師)の講義を受けていた。


 この、なにか心配事があると延々とネットで調べてしまう、いや調べると云えば聞こえがいいが、実際にはちょっとでも安心させてくれる文章を探し求めて同工異曲の記事をはしごしているだけという不毛な行為に走るのは、じつにあるあるというか、身につまされる。

 

 *

 

 さてこれを書いている時分、僕は高血圧で久しぶりにヒポコンデリー、というとちょっと大げさだがそれに近いような心理状態になっている。

  いや実際にかなり高い数値が出ており、診断を受けて降圧剤を処方されたのでまったくの妄想ではないのだが、しかし医者とのあいだにどうも温度差があるんですね、これが。
 僕にしてみれば、確率は低いのだろうけどいつ心筋梗塞脳出血などで突然死するかわからない、というような恐怖を感じているのに対し、医者はといえば「そういう可能性はゼロではないけれど、年齢的には低いです」とか「節制しないと二十年後くらいに肝硬変になりますよ」(逆にまだ二十年間は大丈夫なのか!?)とか「一応薬を出しときますね、一日一錠でいいやつを」みたいな感じなのである。
 医者と患者に温度差があるのは当たり前といえば当たり前だが、それを差し引いても、どうも自分は心配しすぎになっている。つまり久しぶりに、あの母が亡くなった翌年のようなヒポコンデリー的状態に陥っているような気がするのだ。

 

 ちなみに降圧剤を処方されるにあたっての検査では、心電図、レントゲン、CT(これは数ヶ月前に別件でやった)すべてにおいて異常はなく、これといって病気は何もないとのことだった。ただ血圧、尿酸値、中性脂肪コレステロール値などがすこぶる悪い。ようは「なんの病気にもかかっていないが数値だけがめちゃくちゃ悪い」という典型的な不摂生バカであった。

 

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 それにしても、なぜ今時分、僕はヒポコンデリー(気味)になっているのか。

 本文で触れた他にも複数の医学事典を引いたところ、ヒポコンデリーの原因としては「攻撃性を抑圧した結果、自分自身に向かっている」とか「自尊心を傷つけられた」とか「両親に何かがあった」といったものが挙げられているのだが、どれもいまひとつピンと来ないというか、言われてみればあるっちゃあるような、ないっちゃないような、そんな感じなのである。

 

 自分の心というのはわかりにくいものである。
 まあ、何か心当たりが判明したら、そしてそれがわざわざ書くほどの話だったら、後日続報を書くかも知れません。が、ひとまず今日はこんなところで。
 みなさんも、心身をお大事に(・ω・)ノ

 

 

 

精神医学事典

精神医学事典

 増補版のリンクが見当たらなかったが、これの平成増補版を参照した。    

日本人という鬱病

日本人という鬱病

  • 作者:芝 伸太郎
  • 発売日: 1999/02/01
  • メディア: 単行本
精神科診断戦略: モリソン先生のDSM-5徹底攻略case130

精神科診断戦略: モリソン先生のDSM-5徹底攻略case130