メサイア・コンプレックスはユング心理学の用語だ。そして多くの概念がそうであるように狭義と広義があり、ここではジム・ジョーンズ、あるいは麻原彰晃がそうであったかも知れないような狭義の、誇大妄想的なメサコンは扱わない。
広義のメサイア・コンプレックスは、周知の通り「他人を救いたがる人たち」のことであり、何のために救いたがるのかと云えば、自尊心を補填する手段であったり、自分がこの世界に必要とされていることの確認、男でいえばかわいそうな女を庇護することによって自分の人生を充実させたい、といったことである。本稿ではこうした広義のメサコンを扱う(「本稿」とかいうほど大げさな文章じゃないけれど)。
さてメサイアコンプレックス、心当たりのある人は多いですよね。
男性視点で言うならば、SNSで知り合う女性には二種類いる。軽いメンヘラと、重度のメンヘラだ。
いっぽう、SNSをやっている男性にも二種類いる。勘の良い人はもうおわかりだろうが、軽度のメサコンと重度のメサコンである。
いやそうでもない人もいるぞ、とか女のメサコンや男のシンデレラ願望だっているぞ、といった一見もっともな指摘は却下する。ここで俎上にあげているのは、そうでない人もいるという(当たり前の)事実ではなく、思わず「みんなそうだ」と言いたくなるほど男のメサコンと女のメンヘラがありふれている、そして両者のマッチングも非常に多い、という我々の体感的な事実についてだからだ。
※そんなわけで、些か免罪符的ではあるが――以下に書くことはすべて、男女を入れ替えても、あるいは性別についての記述は一切無視して読んでいただいても構わないので、あしからず!
では救いたい男と救われたい女(ここでは一応、メンヘラ女の大半がシンデレラ・コンプレックスという前提で話を進める)の何がいけないというのか。win-winの関係じゃないか、という意見もある。確かに別にいけなくはないのだ。二人の関係がそのままであるうちは。
だがこの関係は共依存的だ。そして共依存であることによる避けがたい問題を孕んでいる。それは何か。
この問題を考えるにあたっては、ジジェクが映画『街の灯』のラストシーンについて書いた記述を参照するのが最も手っ取り早く、かつ的確だろう。
この古典的名画では、チャップリン扮する浮浪者が盲目の少女と出会い、彼の献身的な奮闘と幾つかの奇跡によって少女が視力を回復する。だがその代償として浮浪者は窃盗罪で投獄され、少女は自分を救ってくれた人物が誰であるのかを知らない。そしてラストシーンで、それが彼女の想像していたような金持ちの「白馬の王子様」ではなく、みすぼらしい浮浪者であることを知る。
「あなただったんですか」
「見えるのかね」
「ええ、今は見えます」
(『街の灯』)
浮浪者はどこか自分を恥じているような、はにかんだ笑みを浮かべ、そのまま映画は終わる。彼女がその後、この浮浪者=メサイアをどのように扱ったのかはわからない。
これについてジジェクは次のように書く。
耐えがたいほどの近さでいきなり画面いっぱいに写し出されるこの汚らしい滑稽な男は、本当に少女が愛するに値する存在なのだろうか。彼女は、その(安田註:自分を救ってくれた人と再会したいという)熱烈な欲望に対する応答として手に入れたこの社会的落伍者を受け入れ、自分の身に引き受けることができるのだろうか。そして――ウィリアム・ロスマンが指摘したように――同じ疑問を反対の方向にも向けなければならない。つまり、「彼女の夢の中には、このぼろ布のような男のための場所があるのだろうか」という疑問だけではなく、「彼の夢の中にはまだ、いまや健康な普通の少女となり、商売を成功させている彼女のための場所があるのだろうか」と問わねばならない。つまり、浮浪者が少女に同情的な愛情を抱いたのは、彼女が盲目で、貧乏で、まったくよるべなく、彼の保護を必要としていたからではなかったのか。いまでは彼女のほうが彼を養ってやる立場にあるというのに、それでも彼は少女を受け入れることができるのか。
(スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』。太字は安田による)
……もうおわかりであろう。メサコン男とメンヘラ女という共依存関係が両者にとって享楽を供給し続けるためには、彼女を苦しませている境遇は決して解決されてはならないのである。
*
このような共依存関係の結末は三通りしかない。
一つ目は問題が解決したのちに男が女への興味を失う場合。この場合は男は、別の「救うべき対象」を求めてさまようことになる。メサイア難民。いっぽう、女は苦悩から解放された代償を愛の喪失として支払わなければならない。
二つ目は女が苦悩に留まる場合。彼女は、自分が悩み続けている限りにおいて、男が自分に関心と愛情を注いでくれることを知っている。したがって、男を繋ぎ止めるためにかえって苦悩を必要とし、苦悩に依存するのである。ジェフリー・ウィンバーグは、同じような動機で何年にもわたってカウンセリングを受け続ける患者について述べている(『ココロによく効く非常識セラピー』)。治ってしまったらカウンセラーのもとを去らなければならない、というわけだ。都合の良いことに、カウンセラーもまた、患者が治ってしまうと顧客を一人失うことになる。こうしてずぶずぶの関係が続いてゆく。
三つ目は――そうなるに越したことはないが最も困難な道である――男がメサイア・コンプレックスを脱し、同時に女がシンデレラ・コンプレックスから脱する場合である。この場合によってのみ、苦難が解決してからも両者の愛情は続くであろう。
メサコン男の最大の問題は、まさに「いまや健康な普通の少女」となった女性に対し、同じような関心と愛情を維持することが出来ないことである。それが、やや大げさな言い方をすれば、本当の愛と、自己肯定感の低さを埋め合わせるためのメサイア・コンプレックスとの違いなのである。
以上、多分に内省を込めて書いてみた。自分のなかの救世主にそっと別れを告げるために。いままでどうもありがとう、そして、さよなら救世主(;ω;)ノシ
追記1:やはりこのての話は、僕自身も個人の経験と観測に基づいて書いているし(それはじつに多くのケースであって、けっして二人や三人ではないが)、読者もそれぞれの経験と観測によって大きく印象が左右される話なので、「こういう場合もあるんじゃないか」という意見が色々出てくるのは必然だろう。その中で追記に値すると思ったのは、
”メサコン男の最大の問題は、相手が「健康な普通の少女」になった時に関心と愛情を維持できないことではなく、メンヘラ女に対して注いできた労力が全くのムダであることがわかったときに一気に強烈な憎悪に転じてしまうことである”
というものであった。
なるほどそういうケースも散見する。メンヘラ女が、昨日まではあれほど自分に縋っていたのに(しかも少なからず生活を引っ掻き回していたのに)、ある日突然冷淡になり、些細な一言で人間的に非難されたり、しまいには別の男のもとへ去ってしまうのである。映画的ファム・ファタル。あるいは僕はこれを「メンヘラの人間関係リセット癖」とか「ぼうけんのしょが消えた」と呼んでいる。愛が幻想によってレバレッジされていると、幻想が消えたときに現実の相手についてはほとんど何も見てこなかった――当然よそよそしく感じられ、親愛の情を抱きようもない――ことに気付くのだろうか。
とにかく、そうした事態はメサコン男にとって今後の享楽(自尊心や幻想の愛)の供給が断たれるだけではなく、より酷いことに今まで受け取っていた享楽を強制的に没収されることでもある。これが憎まずにいられようか。まあそういう享楽を受け取っていたこと自体がメサコンの自業自得とは言えるが。
ただ、こうした心理がどのくらいメサコン男にとって必然なのかはわからない。どうでしょうかみなさん。あるあるですか? そのうち何かわかったら書く、かもしれない。
追記2:メサイア・コンプレックスがユング心理学用語だと冒頭で述べたが、フロイトは、コンプレックスという言葉に一定の利便性を認めたものの、学問的に証明されていないことや、その濫用は人間の類型的理解に繋がるとし、個人の心的特殊性を重視する立場から批判的であった。又フロイトは、フィレンツィへの書簡においてコンプレックスを「人生での行動を導くもの」であるとし、解消すべきもの、純粋に病因的な中核となるものの概念と混同されることを警戒した(ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典』)。その結果、フロイトはエディプス・コンプレックスを除いてはコンプレックス概念の使用に積極的ではない。
本稿はフロイト-ラカンの系譜であるジジェクの引用を中心に添えており、流派的な不整合が若干気になったが、引用箇所については内容的な不整合はとくにない、というかまあエッセイだからいいかな、ということでそのままにした。
- 作者:スラヴォイ ジジェク
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- 作者:ジェフリー ウィンバーグ
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