やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

ちんこ盗み猫 意味と背景

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 ちんこ盗み猫。見た瞬間に反射的にそう呼んでしまった、このちんこを咥えた猫の絵は、1555年ドイツで制作された作者不詳の版画(※1)である。 もちろんこんなものを前々から知っていたわけではなく、別件で西欧中世の泥棒について調べていた時(したがってmedieval thief とかそれに類する単語で色々検索していたさいに)偶然目についたものである。これが風刺画であることはあきらかだが(※2)、その意味するところは一見しただけではわからなかった。そこで本来の調べ物をしばらく脇に置いて、この版画の意味を調べてみることにした。

 

 さて、とりあえず全体を見てみよう。

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  (オランダ国立美術館、作者不詳、1555)

 

 まず、右側にちんこを咥えた巨大な猫がいる。この猫はいまにも門から走り去ろうとしながらも、ふと後ろを振り返っている。猫の後ろには修道女がいて、猫に魚を差し出して気を引こうとしている。彼女はなぜ猫を呼び止めるのか。おそらく魚と猫が口に咥えているちんこを交換したいのだろう。他、道化師らしき人物が、下着らしき布を手からぶら下げている(※3)。

 

 猫の下には”Flaisch macht Flaisch”と描かれているが、Flaischは肉をあらわすドイツ古語だ(現在のFleisch)。したがってこの言葉は

 

 「肉は肉を与える」

 

 となるのだが、これだけでは何のことだかわからない。そこでこの言葉について調べたところ、これはドイツの諺

 

 ”Fleisch macht Fleisch, fisch macht nisch”

 (肉は肉を与える、魚は何も与えない)

 

 の前半部分であるらしい(※4)。

 この諺は、口にしたときの響きとリズムの遊びに向いたもの(例えば「驚き桃の木山椒の木」や"eeny meeny miney mo"といったような)であり半分はナンセンスなのだが、ともあれ直接的には「肉のほうが魚より栄養があってイイゾ」という意味である。だが同時に肉は肉欲を、魚は禁欲を暗示している。

 Fleischは言葉あそび的にはFleischeslust(肉欲)を連想させるという説もあるが(※5)、とりたてて象徴的コンテクストを詮索しなくとも現代英語のfleshにしてもある程度肉欲の含意はある(※6)のだし、肉=肉欲という隠喩については多くを語る必要はないだろう。

 一方、なぜ魚が禁欲なのかというと、それはカトリックの「魚の日」の習慣からくる。

 

 欧米のキリスト教国、とりわけカトリック圏において、金曜日を〈魚の日 Fish day 〉と呼び、獣肉を断って、もっぱら魚肉を料理に用いる習慣があるが、これは金曜日がキリストの磔刑の忌日であり、断食日 fast day であったことと関連している。

 (『平凡社世界大百科事典』第2版)

 

 ……といったように、魚=禁欲という暗示もまた、当時の市民にとってごく自然なものであった(※7)。しかも、そもそも魚はキリストの象徴だということもある。

 したがってこの諺は、「肉のほうが魚より栄養があってイイゾ」というのと同時に「肉欲のほうが禁欲よりも楽しくてイイゾ」ということをも含意している。

 となれば、この諷刺画の含意も大体見えてきた。修道女は禁欲、あるいは信仰そのものを差し出して、代わりに肉欲を得ようとしているのである(※8)。あるサイトではこの絵の寓意を「尼は、猫が魚を求めているほどに陰茎を求める」と言い表していたが、簡潔で的を射ている(※9)。

 

 *

 

 また猫は魔女や異端の象徴でもあることにも留意しておきたい。

 1233年グレゴリウス九世の勅書によって猫は魔女と結びつけて考えられるようになり、猫だけではなく猫を飼う女性も殺戮の対象となっている。また1484年、教皇インノケンティウス八世は勅書「このうえない熱意でもって願いつつ」(Summis desiderantes)を発し、そのなかで魔女や魔術師とともに猫もまた激しく弾劾しているが、これは西欧における猫の虐殺史の始まりでもあった(※10)。

 数年後の1487年にはH・インスティトリスとJ・シュプレンガーの悪名高い『魔女の鉄槌』が刊行され、スペイン異端審問所長官にトマス・デ・トルケマダが任命されている。『魔女の鉄槌』によれば魔女は男たちから陰部を奪ってきて、別の女に受胎させることが出来たという。

 

 魔女はニ十個、三十個、それ以上という大きな数の陰茎を、箱や鳥の巣に集めていた。その中で陰茎はまるで生きているような形をして、枯れ草やまぐさを食べるために、動くとの話であった。これは多くの人がじぶんの目で見たと証言するとおりであった。

 (インスティトリス/シュプレンガー『魔女の鉄槌』)(※11)

 

 してみると、件の猫は魔女の使いだったのかも知れない。 

 

 この諷刺画の作者は「修道女らにとっては禁欲よりも肉欲のほうがよい」と揶揄すると同時に、カトリック教会を魔女やその元締めである悪魔、異端に近しいものとして表現するという意図を秘めていた可能性が高い、といえる。

 

 *

 

 ではなぜこのような風刺画が書かれたのだろうか。

 結論からいうと、これはプロテスタントによるカトリック批判のために製作されたプロパガンダ版画である。

 十六世紀ドイツでは、プロテスタントによってこのようなプロパガンダ版画が多数つくられた。知識人向けの書籍と違って内容はきわめて大衆向けであり、動物あるいは「首から上だけが動物である人物」などを用いたわかりやすい寓意画で、教会の矛盾や聖職者の堕落をあげつらうものが多かった。カトリックも反撃はしたが、彼らは公式の説教壇を確保していたため印刷物に力を入れることはあまりせず、もっぱらルターやツィングリに神学論争を挑む、といった動向のほうが目立つ。いっぽう説教壇を持っていないプロテスタント側のほうが、居酒屋などの「ゲリラ説教」や印刷物に力をそそぐ結果となった。

 

 高度な内容をふくんだ書籍ではなく、ビラやパンフレットが宗教改革の理念を民衆に伝えるのには大きな役割をはたした。文字に書かれた簡単な内容は宗教改革の高い理念をふくんでいないとしても、対話や朗読の形式で声の文化に変換され、木版画という視覚手段をも利用しながら伝えられた。音読と視覚に訴えたコミュニケーション手段は、街角や居酒屋といった場所でおそらく紙芝居のように利用され、宗教改革の普及におおいに役立ったことは容易に想像できる。

 (森田安一『ルターの首引き猫 木版画で読む宗教改革』)

 

 したがって大衆にもわかりやすい「聖職者は性欲まみれ」というモチーフは、当時のプロパガンダ版画としては典型的な部類と思われる。だがそれだけではない。この版画には聖職者たちの退廃を指摘することによってカトリックの独身制を批判するという目的もあった。そのことを少し見てゆこう。

 

 *

 

  「神に仕える聖職者は独身であることがふさわしい」という独身制の教義は、元来のキリスト教の教義にはなく十二世紀になってから導入されたものであり、プロテスタントはこの教義に強く反対していた。

 ルターは宗教改革を開始するとほぼ同時に、この独身制を破って妻帯している。彼に云わせれば独身制は聖書的な裏付けに乏しく(※12)人間として自然なことでもない。にもかかわらず教会が独身制を敷くのは、ようは「聖職者は俗人とは異なる聖なる存在である」と誇示するためである。だが、はたして聖職者だけが神に仕える者なのだろうか。職人であれ農民であれ、人は誰でも神に仕える存在であり、神の下に平等であるべきではないのか。

 したがって聖職者が独身を貫くことには何の意味もない。ルターの論点はおおむねそのようなものであった。

 

 版画に戻って云うならば、このような独身制の矛盾が「性欲を我慢しきれない修道女」として表現されている。(※13)人間だものね、性欲はあるよね、というありのままの人間を描くことと、そんな彼女を揶揄しつつも結局のところ独身制がいけないのだというカトリックの教義に対する批判を、いわば同時にやってのけているのである。

 

 カトリックの独身制は、近年問題となっている教会内部における聖職者による性的虐待の間接的誘因の一つとして、今でも賛否両論の的となっている。2010年ドイツでは、平信徒団体の代表や司教会議の議長が「独身性はキリスト教の教義上必要なものではない」と発言するといった動きが見られる(※14)。また2014年には、オーストラリアの教会によって「独身制が児童性的虐待の一因となっている可能性がある」という報告書が提出されている(※15)。

 ……のであるが、まあ、この問題については僕は確信を持って意見を言うことは出来ないし、あまりに本筋と外れるためこの記事での言及は控える。

 

 *

 

 なにやら珍妙な(ちんこだけに)版画についての調べ物から、ずいぶんシリアスな方向に話が向かってしまった。しかしシリアスと滑稽は紙一重、「ちんこを咥えた猫」というおどけた表象があったからこそ、かの猫を追ううちに我々はここまでやって来てしまったのだ。

 猫は黄昏に見失ってしまった。ふとどこからともなく、修道女の忍び笑いと猫の鳴き声が響いてくる。さあ、あなたも家に帰って自分の「いいこと」をしなさい、世の中は、哲学の教室でもなし、あなただって、失礼ながら聖人賢者におなりになるおつもりでもございますまい(※16)……いったところでこの話は幕引きである。

 

【注】

 ※1 ツイッターでは「木版画」とツイートしたが、それは当時、プロテスタントによるプロパガンダ木版画の作品群がよく知られていたためと、それらの同時代の木版画と比べて絵柄や線のタッチにさほどの相違を感じなかったためであった。その後読者の方から「これはエングレービング(銅版画)かエッチングにドライポイントを併用したものではないか」という指摘をいただいた。たとえば縁(ふち)のプリントマーク(エッジの凹み)はインタグリオ(凹版)の特徴であって、木版画ではほとんど見られないものであるという。また木版画は基本的に線に滲みが出ることはなく、余白部分に細い傷のようなタッチがあること、猫が咥えている睾丸にも線の滲みがあることからも本作品は銅版画と思われるという。最終的な判断は出来ず、したがってブログではたんに「版画」とした。

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 ※2 道化師がここにいるのは、この絵が風刺画であることを表すためである。だがどちらにせよこの作品が風刺画であることは言うまでもない。

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 ※3 道化師が持っているのは下着と見てほぼ間違いないが、なぜ持っているのかは定かではない。なにか間男のようなシチュエーションを暗示しているという説もある。いずれにせよ本作の sexual なテーマに関連する小道具の一つであろう。

 

 ※4 諺の起源については、まずスペインの古諺”Carne, carne cria; y peces, agua fria”(肉は肉を与え、魚は冷たい水しか与えない)があり、のちにまったく同じ意味のドイツの古い諺”Fleisch macht Fleisch und Fische kaltes Wasser”が発生した。それがさらに変化して本文中にあるような”Fleisch macht Fleisch, fisch macht nisch”となったらしい。

 

 ※5 https://vulgarcrowd.wordpress.com/2015/10/19/the-naughty-nun-a-raunchy-woodcut-from-1555/  を参照。

 

 ※6 原田実氏によれば、例えばフィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』は原題を"Flesh”というが、次のような物語である。

 http://pecosmile.blog.shinobi.jp/sf小説/sf読もうぜ-196-%E3%80%80フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』

 

 ※7 ピーテル・ブリューゲル『謝肉祭と四旬節の喧嘩』(1559)を想起されたい。ここでは〈四区節=カトリック=禁欲=魚〉と〈謝肉祭=プロテスタント=快楽=肉〉が戦いをくりひろげている。

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 http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/brueghel_fight.html

 

 ※8 この修道女の腰から下げているロザリオはよく見ると十字架の部分がちんこになっている。この修道女は神を崇めているように見えて、実は本心ではちんこを崇めているのだ、という皮肉。

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 ※9 http://en.posztukiwania.pl/2015/02/15/the-forbidden-fruit-tastes-the-sweetest/ を参照。

 

 ※10 この部分はいくつかの記事を参考にしているが、次の記事はとくに興味深い内容だった。


 ※11  この引用はE・フックス『完訳 風俗の歴史3 ルネサンス社会風俗』に依っている。

 尚、僕はこうした、今日ではさまざまに知られている歴史的事実をもってキリスト教の残虐性を言い立てることには積極的には同意しない(まあ飲み会ていどの場所では云うけれど)。西欧中世社会に度々あらわれる異常な集団心理的恐慌状態については、より厳密かつ複雑性を受け容れたアプローチのほうが、単なる揶揄・誹謗よりも今日的に得るものが大きいと思われる。

 

 ※12 カトリックは独身主義の根拠を第一コリント書第七章に求めている。パウロによるこの文書はたしかに独身を勧めているが、妻帯を許してもいる両義的な文書である。 

 http://bible.salterrae.net/kougo/html/1corintians.html

 

 ※13 実際のところ、なかなか性欲を抑えることが出来なかったようである。ルネサンス期の修道女の淫蕩ぶりについてはさまざまな同時代の諺がある。以下はその一例(いずれもフックスの上述の書による)。

 「尼さんもお女郎さんも、けっきょく同じものじゃ」

 「下半身は女郎、上半身は聖母」

 「坊さんがいななけば、尼さんはかんぬきをはずす」

 「たいていの修道院では、寝台の下に二種のスリッパが見つかる」

  

 ※14 https://blogs.yahoo.co.jp/shigekisatojp/13389559.html を参照。

 

 ※15 2014年オーストラリアの教会による報告書についてはこちらを参照。

 http://www.afpbb.com/articles/-/3034188

 又、独身制による矛盾、聖職者の葛藤について書いたものとしては、僕の知るかぎりではゴードン・トーマス『欲望と抑制のあいだで 背徳の修道者たちの記録』(原書房、2002)がかなり早い段階でスポットを充てている。聖職者の小児性愛的犯罪についても、本文で挙げたものの他に、例えばスラヴォイ・ジジェクの著作で言及されているのを読んだ記憶がある。

 このように欧米ではかなり前から問題視されていたことであり、今年に入って大きくクローズアップされているのは何度目かのリフレインでもある。これまでと同じようにしばらく経つと忘れ去られる、ということが繰り返されないことを願う。

  

 ※16 太宰治『新ハムレット』より大臣ポローニアスの台詞。なんだか偏愛しているので使わせてもらった。

 

 

 

  なお今回のブログを書くにあたって、版画の解釈については主にウェブサイトを参考にしたのだが、時代背景について、とくに宗教改革期におけるプロパガンダ木版画に関心のある方には森田安一氏の本をお薦めする。

 また、ツイッターのリプでさまざま知見が寄せられたのもこの版画にまつわるツイートの特徴であり、それはブログ記事を書くさいにも大いに参考にさせていただいた。平素、僕はSNSによる集合知だとか市民的熟議といったものにかなり懐疑的であることを経験上余儀なくされているが、バズること=クソリプがたくさんつくことともかぎらず、条件によっては大いに効用があるケースもある、というのは今後も記憶に留めておきたい。この場を借りて感謝申し上げます。

 

ルターの首引き猫―木版画で読む宗教改革 (歴史のフロンティア)

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完訳風俗の歴史 (角川文庫)

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欲望と抑制のあいだで―背徳の修道者たちの記録

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