やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

職業・教養・いかに生きるか

 

 自分って物事を知らないよなあ、とこの頃ひしひしと感じる。というのも、ふつう人は仕事を通じて世間を知り、読書を通じて直接体験できないことを知り、それらが両眼のようになって物事を立体的に把握できる……とするならば、僕は仕事でも本、家でも本なので、両眼というよりも右目が二つあるような、なんだか書いてるうちにあんまり良くない例えだと気付いて焦っているがまあそんな状態だからだ。

 

 物事を知らないというより、正確に言えば「知識としては知っているが直接知っているものに乏しい」「深くコミットしているものがあまりない」という状態で、こりゃマズいぞと思うのだが、読書以外に何をしているかといえば、ツイッター、音楽を聴く、飲酒、あとはポルノコンテンツを鑑賞するといったきわめて内向的なものばかりなので、もうそういう性格なのだから仕方がないかと半ば諦めも入っている。

 

 *

 

 そこで、阿部謹也の『「教養」とは何か』に何かヒントになることが書いてあるかも知れない、と思い手に取ったのだが、ここまでの話と半分繋がって半分それるのだがこんなことを云っていた。

 

 十二世紀頃になってはじめて「いかに生きるか」という問いが実質的な意味をもつことになった。この頃に都市が成立し、そこで新たな職業選択の可能性が開かれていたからである。
 (中略)
 このような可能性が開かれたとき、はじめて人は「いかに生きるか」という問いに直面したのである。それまでは父親の職業を継ぐことが当然のこととされていた。いまやなにを職業とすべきかを考える中で「いかに生きるか」という問いが重要な意味をもったのである。
 (阿部謹也『「教養」とは何か』)

 

 逆に言えば、「いかに生きるか」という問いは、職業選択なくしては実質的な意味を持たないというわけだ。はっきり言いやがったな。

 

 現代の日本でも、やはり「いかに生きるか」というのは基本的に青年時代の問いとされている。高校生や大学生やギリ二十代前半の社会人といったところだろう。そしてそれは、彼らがなんの職業に就く/就けるかという現実の問題を目の当たりにしていることとおそらく無関係ではないはずだ。

 

 社会人にしろ主婦にしろ、あるいは反社会人や非社会人や超社会人にしろ、職業が定まってくると起きている時間の大半はそれに従事するわけで、休日のアミューズメントは労働力の再生産または余滴にすぎない、と阿部の議論を前提とするならばどうしても言わざるを得ないのである。しかし青年でもなく、いまの仕事に満足してもいない人は、一体どうすればよいというのか。

  

diamond.jp

 

 そんなこと云ったって簡単に転職できるものではないし、簡単に「嫌な仕事は辞めるべき!」とか言っちゃうのは、成功者バイアスバリバリのITベンチャー起業主か、自己責任論を内面化してるあわれなロスジェネおっさんか、「海外でノマドワーカー! 年収1000万! 関心のある方はDMください!」式の安っぽい宣伝アカウントか、ようするに何も考えてない人間ばかりなのである。

 

 もはや青年期ではなく、人によっては家のローンや子育てや親の面倒があり、簡単に身動きの取れない人間にとっては、転職など非現実も甚だしい。したがって、休日の過ごし方によって「いかに生きるか」ということを実践してゆけないのだろうか(´・ω・`) という路線を簡単に捨てるわけにはいかないのである。

 

 そうやって考えると、僕は子供もいないし、仕事を少な目にして「お金はないけど時間はそこそこある」生活を選んだために、未だに「いかに生きるか」といった問いが頭をもたげるのかも知れない。いわば半人前なのである。余滴というには休日が長く、いっぽう仕事は最低限食べてゆくために割り切ってやっているだけなので……。

 

 *

 

 そんなわけで、「いかに生きるか」は実質的に「なにを職業とすべきか」であるとしたのち、阿部謹也は続けて云う。

 

 これが「教養」の始まりであった。この頃多少知的関心のある人はこの問いをローマ末期の作家たちに問いかけていた。当時の俗語としてのフランス語やドイツ語ではこのような問いに答えることはできなかったからである。ラテン語の能力はこの頃洗練され、人々は文法的な誤りなくラテン語を話せるようになっていた。そのラテン語を用いて「いかに生きるか」という問いが立てられていた。
 (同書)

 

 色々あるんだろうけど、例えばセネカの『幸福な人生について』とか『人生の短さについて』とかでしょうか。
 セネカは『幸福な人生について』において、「自然の法則と理想に順応して自己を形成すること、これが英知なのである。それゆえ幸福な人生は、人生自体の自然に適合した生活である」と述べているが、確かにこれもそういうつもりで読むと、職業選択のアドバイスみたいに思えてくる。
 しかし近代、十八~十九世紀頃になると、教養は「いかに生きるか」という問いを排除するようになる。

 

 この段階においてはそれはゲーテやシラー、レッシングその他の学者の作品の購読に固定化され、それらを読む読み方も定められ、学位という形で教養も個人の生き方とは関係なしに外から判断されるようになった。
 (中略)
 それぞれの学問分野が当初の「いかに生きるべきか」という問いから遊離したことは国家や成立しつつあった社会にとっては歓迎すべきことであった。倫理的要素を排除したところで営まれる学問は単なる知識の集成として国家や社会にとって望ましいことだったからである。
 (同書)

 

 といった話になってゆく。これはちょっと、哲学マニアにありがちな人生論を一段低く見る悪癖を指摘された感がした。ビジネスマン向けの三文人生論、飲み屋でおっさんが語る「俺の哲学」みたいなものに辟易するあまり、どうしても「哲学は学問であって人生論じゃない」というようなことを言いたくなってしまうのだ。実際、原点は人生論なんですね。

 

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 *

 

 かくして本だらけの職場と本だらけの家の往復、またそれと似たり寄ったりの内向的な趣味一辺倒から脱するため、なにか新しい趣味を、できればそれを通じて世界にコンタクトするような趣味を始めたいな、と思った。まだ手遅れではないとすれば、メディアで仕入れた知識ばかりの無知なおとなになりたくないのである。

 

 秋だ。ちょうど活動するのに都合のよい季節である。
 読者諸氏におかれては如何か。自分はじゅうぶん充実しているし世界とコンタクトして色々知っている、と自負される方もいるかも知れない。いや実際ヤバいよね、と思う方もいるかも知れない。
 もし思うところがあるとすれば、なにか始めてみるといいかも知れません。転職活動でもいいんだけど、もっと些細なことからでも。今がチャンスです。お客さん運がいい。なにしろ今まさに秋が始まろうとしているので……。

 

「教養」とは何か (講談社現代新書)

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生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

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