イヌイットのラップバトル/モラルを担保するもの
聞くところによれば、イヌイットは揉め事があったとき、歌によって決着をつける習慣がつい最近まであったらしい。
人類学者であり言語学者でもあるピーター・ファーブの伝えるところによると、イヌイットの間で紛争が起こったさい、彼らは歌に乗せて交互に相手を批判する「歌合戦」を行なうという。その中ではかなり痛烈な侮辱や揶揄、下ネタが飛び交い、過激になればなるほど聴衆は大喜びした。そして、より巧妙な側、図星を突いた側がだんだんと聴衆を味方につけてゆく。
そのうちに相手が再起できないような巧みな侮蔑的言辞が一方から与えられると、笑い声もひときわ高くなり、長く続き、ここにおいて血を見ずに勝者が決められるのである。
(ピーター・ファーブ『ことばの遊び』)
これはほとんどラップバトルなのでは? と思えてならない。
それにしても、暴力の代替であると同時に議論の代替でもあるという、じつによく出来た風習である。しかもこのバトルに勝つためには語彙やレトリックを磨く必要もあって、なんだか教養の水準も高まりそうで一石三丁という感じがする。
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だが、イヌイットの歌合戦にはそれ以上の効用もあるのではないだろうか。今回はその効用について書きたいのだが、ようは彼らの歌合戦は、暴力や議論の代替であると同時に人々のモラルを担保しているのではないかということだ。
というのも、マシュー・ホジャートによれば、最近まで新石器時代と同様のレベルで暮らしていたイヌイットは(ずいぶん失礼な言い草だが、ホジャートはそう言っている)、明確な法律のシステムを持っておらず、したがって警察官や判事という職業も存在しなかったし、教師や牧師のように人々を「叱る」立場の者もいなかった。さらに彼らの宗教にも、地獄のような超自然的制裁制度は存在しなかったのである。
では彼らの社会において悪はどのように制裁されるのか? ホジャートによれば、そうしたものを歌合戦が担っていたという。
社会的に不正な行為を処罰する主要な手段は諷刺的な歌であって、これを聞いた犯罪者は恥辱のあまり自ら首をくくるのである。エスキモーの諷刺家が意図しているのは、アレグザンダー・ポープが「神を恐れざる人もわれを恐れる」と言ったのと、まったく同じ目的である。これは実際に効果があると言われている。諷刺的な歌のコンテストでやっつけられた者は、自己自身を矯正しようと試みるであろう。
(M・ホジャート『諷刺の芸術』、太字は安田による)
その通りだとすると、ものすごい効力である。
僕は無神論者なのだが、時々ジレンマに感じるのは人々のモラルを宗教が担保している面がある、少なくともそのように見えることだ。昔は悪いことをすればバチが当たるとか、地獄に落ちるといったことが信じられており、それがあまりにひどい行いに対する歯止めになっていたのではないか。あるいは「袖振り合うも多生の縁」というような、社会的紐帯を強め善行を促す役割を宗教が担っていたのではないか。
世の中が無神論者ばかりになると、人はより利己的で傍若無人に振る舞うようになってしまうのではないか、とまあそんなことを気にしていたのだ。
しかしホジャートの伝えるイヌイットは、バチだとか地獄のような超自然的制裁制度に頼ることなく、歌合戦によって悪人が恥じ入り、悔い改めるというので驚いてしまったのである。いわば言葉が神を代替する、まさに「言葉は神」であったのだ。
そのような言葉の持つ不思議な力にホジャートは注目し、たとえば呪いだとかに話を繋げてゆく。
プリミティヴな悪口雑言は呪いと密接な関係がある。そして呪いすなわち災厄の祈願は言葉の魔術的な力に対する信仰に基づいている。
(同書)
些か俗流遺伝学的な発想ではあるけれど、思うに人が呪いに怯えるのは何十万年ものあいだ、他者からの敵意・悪意はそのまま生命の危険を意味したからである。
人類は長いこと、夜は真っ暗闇で誰が誰だかわからない、家にちゃんとした鍵もかからない、警察もいない、物証主義的発想すらおぼつかない、ようするに殺されるのを防ぎようがなく、殺されても誰が犯人なのかわからない環境で生きてきた。そのため、他人に憎まれるのはかなり危険なことであった。
また今のように、誰でもお金さえ出せば物やサービスを売ってくれるような店もなかったので、大体は生まれてからずっと属すことになる共同体からのけ者にされると、生活することが出来なくなった。
現代社会では、誰かに嫌われたからといって「いつ殺されてもおかしくない」と怯える必要はひとまずはないし、共同体に属さないからといってライフラインが絶たれることもないのだが、いかんせん遺伝的な習性から、ヒトは他人からの敵意・悪意を恐れる習性がついており、それゆえに端的に敵意・悪意を表す呪いはいまだに有効なのだろう。
このへんについては以前も少し触れたことがあるので参考までに貼っておく。
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なんにせよ、「宗教使わなくてもモラル担保できるじゃん!」というのがイヌイットの歌合戦から得た気付きであった。信仰があろうがなかろうが、どのみち人は評判を気にし、孤立を恐れる生き物なのであり、それゆえに歌合戦はマジカルな制裁力を持つ。
むしろそうした習性的な恐れのいち表現として、バチだとか地獄というような超自然的制裁制度が着想された、という順序で考えるべきなのかも知れない。
まあ、神も評判もなにも恐れない、傍若無人な人たちも世の中にはけっこういるのが悩ましいところですが。