やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

インターネットポルノ中毒と新世紀のヒューマニズム

 

 洪水のように快楽が与えられている、と70年代生まれの僕には形容したくなる。

 YouTube、ネットフリックス、オンラインポルノ……そうした様々な無料あるいはサブスクリプション・サービスに加え、その気になればスマホひとつで始められるマネーゲーム、あるいはソシャゲー、同じくスマホ一つですぐに届くピザやマクドナルド、24時間どこでも安価で手に入るアルコール、すぐに他人と繋がれるSNS。

 

 脅威的な娯楽の増大に僕もすっかり慣れてしまった。それらは本物の洪水のように際限なく、人を押し流す。といっても、それらを(「依存症ビジネス」への警鐘には同意するにしても)根底から否定したいわけではない。

 IT技術が人の生活に与えた変化については、三つの立場があるとされている。いわゆるテクノ礼賛者、その対極にあるネオラッダイト(IT技術は原則的に人間疎外であると考え、それ以前の生活へ回帰しようとする)、そしてその中間であるテクノリアリストだ。

 

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 (Tech pioneers and the neo-Luddite revolution | Roland Bergerより)

 

 テクノリアリストはIT技術がもたらした変化を基本的には肯定的なものと捉えるが、全面的に礼賛するのではなくさまざまな副作用、弊害、人間疎外にも目を向ける。前二者と比べて折衷的な立場であり、僕もそれに属する。ただしスペクトラムで言うと僕はテクノ礼賛者寄りである。
 なにしろ僕はサイバーグノーシス主義にもかなり肯定的であるし(下記参照)、オンラインの様々なサービスのおかげで生活が向上したという実感が強いからだ。みなさんはどうだろうか。

 

visco110.hatenablog.com

 

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 こうした問題についてちょっと考えてみたくなったのは、デイミアン・トンプソンの『依存症ビジネス』のなかに次のような一節があったからだ。
 トンプソンは、ポルノに影響された彼氏の期待のためにプレッシャーをかけられている、といった英国女性の悩み(豊胸手術をしたり、ブラジリアンワックス脱毛を試みたりするも、ますますニーズについて行くのは難しくなりつつある)について次のように述べている。

 

 自分をデジタル化できない女性たちには、ポルノに夢中になったパートナーのニーズを満足させる方法などないのだ。
 なぜかって? はっきり言うと、彼女たちのボーイフレンドは、もう人間とセックスしたいとは思っていないからだ。彼らの脳は、幻想に条件づけされてしまっている。人間とのセックスはもはや、パソコンの前でやるマスターベーションとオーガズムがもたらすようなドーパミンとエンドルフィンをもたらしてはくれない。男性にとっても女性にとっても、これこそ、インターネットポルノ依存の必然的な結末だ。
 (デイミアン・トンプソン『依存症ビジネス』、以下太字は安田による)

 

 だがここで、一つの疑問が首をもたげる。「だったら無理して付き合わなくてもよいのでは?」という疑問だ。
 彼氏に変化を求める――「インターネットポルノ中毒を抜け出すべき」だというのがデイミアン・トンプソンやゲーリー・ウィルソンの処方箋だ――よりも、さっさと別れてポルノ中毒ではない男と付き合うか、性愛は別のところで調達するよう交渉するか、いずれにせよ過渡期の難しさはあるかも知れないが、「性的なパートナーシップと精神的なパートナーシップは同一の相手に求めなければならない」という社会通念(少なくともトンプソンの住むイギリスや僕の住む日本にはそうした通念はある)のほうを変えてゆけばいいのではないか、と思えるからだ。

 

 そもそも「人には親密なパートナーが不可欠だ」というのはイデオロギーにすぎない。現実に独身の人間は山ほどいるし、セックスレスでありながら関係の安定した夫婦も幾らでもいる。そもそも性欲あるいは精神的繋がりを持ちたいという欲じたいが希薄な人もいる。いったい誰が、彼ら彼女らのライフスタイルを否定することが出来るだろう? まして当人が満足しているならばなおさらだ。
 端的に言うと、僕にはインターネットポルノ中毒の男性がそのままではいけない理由が見当たらないのである。
 ゲーリー・ウィルソンはインターネットポルノ中毒の症候として、勃起不全や早漏、不安、集中力低下、鬱などを挙げているが、そもそも前二者はパートナーとの性的関係を前提とした「不都合」にすぎないし、それ以外にしても、規範から外れていることで疎外感を感じたり、いらぬむなしさや罪悪感に苛まれるといった要素を除くとどの程度精神的に害があるかは未知数だ。よしんば精神衛生上良からぬものがあるとしても、しょせんはアルコールやギャンブルと同じように愚行権の一種とも思える……もちろん「治療」したい人がするのも自由だけれど。

 

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(6 Best Apps To Overcome Porn Addiction - Android and iOS -より)

 

 最終的な大義名分としては少子化問題くらいではないかと思う。しかしそれも、言ってみれば社会側の都合である。政策的に出産・子育てを支援することにはむしろ大賛成だが、それはあくまで環境を整備することによって出産への誘因を増大させようという話であって、「結婚して子供を産まねばならない」というように個人の価値観に踏み込むべきではない。

 

 *

 

 というか、当記事で考察したいのはそういう社会の話ではなく、むしろ「現実に目を向ける」ことはなぜ必要なのかといったことだ(その「現実」には少子化問題が含まれるかも知れないが)。

 さきほどのデイミアン・トンプソンの書きっぷりを見て反射的に思ったのはこういうことだ――現実のセックスよりもインターネットポルノのほうがドーパミンとエンドルフィンを放出させるってことは、脳が現実のセックスよりも満足しているってことじゃないのか?


 素人の蛮勇を振るってざっくり言えば、快楽物質は生存-生殖可能性を増大させる場面に遭遇したときに放出される。ドーパミンは機会に対して、エンドルフィンは満足に対して。つまりセックス出来そうな時にはドーパミンが、セックス後にはエンドルフィンが放出されるというわけだ(これは性欲に限った話ではなく、食物や財貨や仲間に対しても基本的には同じである)。

 しかしこれは進化論的時間単位の話なので、脳は現実のセックスとポルノのそれを完全には区別できない。前回のブログで紹介したエリエザー・J・スタンバーグの知識を借りれば、おそらく前頭前野がそれを区別する役割を果たしているのだが、感覚器官やその伝導路自体は本物かどうかを判断してはいない。そして前頭前野も常にベストのパフォーマンスを発揮しているわけでもない。

 それゆえにポルノを観たところで生殖機会はこれっぽっちも増大していないにもかかわらず、いわば脳が騙されて一定の快楽物質が放出される。そして、どうやら近年のポルノメディアの飛躍的進歩によって快楽物質の分泌量が現実のセックスを上回ってしまったらしいのである。


 とりわけドーパミンとインターネットポルノはひじょうに相性がよい。お気に入りの動画や画像を漁る行為は狩猟本能を刺激することはよく指摘される。そうしたメカニズムについては以前ブログにやや詳しく書いたことがある(下記参照)。

 

visco110.hatenablog.com

 

 また、この記事では触れなかったが、ゲーリー・ウィルソンはドーパミンとインターネットポルノの関係について次のように述べている。

 

 ドーパミンは目新しいもので急増する。新しい車、新作映画、最新デバイス……みんなドーパミンを求める。ドーパミンが急落するとワクワク感も消える。
 (中略)
 インターネットポルノは特に魅惑的だ。ワンクリックでいつも目新しいものが出てくるからだ。新しい「相手」かもしれない。見慣れない場面、変な性行為、あるいは――好きなモノを想像してほしい。人気あるポルノチューブサイトは、何十ものちがったビデオやジャンルをあらゆるページに表示している。そして人を、無尽蔵の性的目新しさで圧倒する。
 タブをいくつも開き、何時間もクリックを続けると、狩猟採集民だったご先祖が生涯かかっても体験できなかったほどの新しいセックスパートナーを、十分ごとに「体験」できる。
 (ゲーリー・ウィルソン『インターネットポルノ中毒』)

 

 「もちろん現実はちがう」とウィルソンは続ける。宝の山に思えるものは、じっさいは画面を眺めていただけにすぎず、どこか別のところにあるものを追いかけていただけなのだ、と。

 確かにそれは現実ではない。だがなぜ「現実」でなければならないのか? バーチャルなセックスでは子供が生まれないからなのか?
 "お説教"は僕の心には響かない。言ってみれば我々はみんなクィアなのであって、インターネットポルノ中毒もクィアである。そしてクィアであることはノー・フューチャーである(いわゆるアンチソーシャル・セオリーというやつ。カッコイイ言い草ですよね)。
 繰り返しになるが少子化問題は社会設計でなんとかするべき話であって一人一人のモラルに訴えるような話ではない。

 

 話を進めよう。したがって我々はなぜ「脳汁がたくさん出ることをするだけの動物」であってはならないのか? ということについて、"お説教"ではない批判があれば耳を傾けたいのである。そこでマルクス・ガブリエルの「神経中心主義」批判について見てゆきたい。

 

 *

 

 マルクス・ガブリエルが強く批判する「神経中心主義」は「私」は脳であるという考え方であり、そう考えることによって外界もまた、現実そのものというよりは脳がそのように認識したものであるとする。マルガブは「そうなると、私たちの精神が働く生活のすべては一種の幻想か幻覚であるということになってしまいます」と述べている。

 この考えを演繹すると、自ずと現実とバーチャルの価値の序列はなくなると僕には思われる。

 インターネットポルノ中毒をめぐるさきほどの話は、まさに神経中心主義の問題である。ようは「脳が現実以上の快楽物質を分泌するのなら、それは現実以上に価値あるものである」というテーゼが、神経中心主義からは自ずと導かれるのではないか。
 なお、本当はマルガブは「神経中心主義」「神経構築主義」などの言葉を微妙に使い分けているが、当記事では「神経中心主義」で統一するのでご了解されたい。また、このへんの話はもちろん『マトリックス』のサイファー問題とも深い関係があるが、その話はあまりに頻出するので今回はパスする。れいの水槽の脳の画像もパスする。漫画『ルサンチマン』も大いに関係あるがパスする。

 

 これはインターネットポルノに限った話ではなく、たとえばネットフリックスのビンジウォッチング(何話も続けて視聴すること)やソーシャルゲーム、冒頭で挙げた依存症ビジネス全般についても言えることだが、神経中心主義の立場を採るならば、現実とは脳がそのように感じるものなのであって、外部によって規定されるものではなくなる。つまり脳汁が出る以上の客観的価値はこの世界には存在しないことになるのだ。
 私見ではこの立場を取るならば、愛情だとか信頼だとか使命感といったより「人間的」な感情も、仕込みから脳汁が出るまでの期間が長期的かつ継続的な快楽追求活動として理解されるのであって、決してそれらの感情が否定されるわけではない。一元論とはこのようにすべてを単一の原理で語ろうとする思想であって、多かれ少なかれ「ものは言いよう」に帰してしまう話ではあるが、決して特定の価値観にそぐわぬものを排除する思想ではない。

 

 そう考えることは、なんと楽なことだろう! 結局のところ我々は明日以降も社会生活を営むであろうし、そのなかで複雑な関係に巻き込まれ、複雑な感情を抱き、複雑な行為をするであろう。つまりいきなり文字通りの「脳汁を垂れ流す動物」になるとは思われないのだが、こうした思想を抱くことでとても気分が軽くなることは確かだ。

 

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 (『花のズボラ飯』より)

 

 マルクス・ガブリエルは、そのような神経中心主義のカタルシスを鋭く言い当てている。 

 

 私は、その背後には解放幻想が潜んでいると考えます。自分が自由であること、そして他者もまた自由であることを直視するのは、とてもしんどい。できることなら誰かに決定を委ねたい、人生が[できることなら]楽しい映画のように内なる心の目の上で上映されてくれたらと思う。
 (マルクス・ガブリエル『「私」は脳ではない』)

 

 ところが、どうも哲学的にはあれこれ言っているけれど――たとえば神経中心主義者はなぜいま見えている世界が「世界そのものというよりも脳がそのように認識したもの」であるとわかるのか、つまり世界じたいについて脳が認識する以上の何かを知っていなければそのような主張は出来ないはずではないか、といったような――結局のところ、マルガブが神経中心主義を批判するのは「まだまだこの世界には人間的な生活を送れない人たちがいて、彼らを見捨ててはならない」(大意)というような、それ自体はもっともだけれど所謂"お説教"なのではないかと思えてくるのである。

 実際に脳汁を垂れ流す動物として生きていて、何か犯罪をおかしたり、社会生活に支障をきたすのでなければ「そういう生き方はいかがなものか」と思想レベルで言うことは出来ても、けっきょく人それぞれの価値観ですわな、という話になってしまうのではないか。
 正直なところ、マルガブのそういう「いいこと言ってるんだろうけれどそそられない」、校長先生的な感じが、いまいち精読する気にならなくて困っている。よって理解が深まったらまた何か書くかもしれない。

 

 *

 

 ノ―レン・ガーツにしてもそうだ。彼の『ニヒリズムとテクノロジー』はインターネットポルノについて直接論じてはいないが、第四章「ニヒリズムと「催眠」テクノロジー」はテレビやYouTubeやネットフリックスについて、自分を催眠にかけ(ぼおっとさせ)現実から目を背けさせるものとして描いている。そしてやはり「それのどこが悪いの?」と問いたくなるのである。

 

 私たちがスクリーンを好きな理由があるとすれば、それはまさしくゾンビ化効果だろう。仕事に対して、子どもに対して、政治の指導者に対して、何かの理由で私たちは疲れているのだ。だからテレビの前で何時間か、自らの手で獲得した特権としてぼんやりとする。言い換えると、テレビを見るのは現実逃避だと私たちは知っている。そしてまさに、それこそがテレビを好む理由なのだ。
 (中略)
 ようするに、実際は幸せでなくても、とりあえず楽しいし、満足できるということだ。
 (ノーレン・ガーツ『ニヒリズムとテクノロジー』)

 

 政治・社会について一定の意識を持つのは確かに必要かも知れない。全員が政治・社会に無関心になったらおそらくはかなり悲惨な世の中になってしまうだろう。そうなったら脳汁を垂れ流すインフラさえ奪われるわけだし、別に「遠い国の人々の生活のことなんかどうでもいい」と思っているわけでもないのだ。当然。
 その点はわかるにしても、「脳汁を垂れ流す動物としてではない人間らしい生き方」なるものは哲学者の頭の中にしか存在しない……というのが言い過ぎなら、そういうのはヒューマニズムの伝統に則った思考であって、大衆にはそんな高尚なものはインストールされていないし、インストールするキャパもあるかどうか怪しいもんですよ、とは言いたくなる。もちろん大衆の一員として。

 

 *

 

 しかし、こういうブログを書くということ自体が、どこかしら「脳汁を垂れ流す動物」になってしまうのはマズイのではないか、という感覚を持っているからではある。
 ふとスマホやPCのモニターから目を上げて部屋を見わたす。窓を開けて外を見る。「現実ねえ……どうなんだろうねえ」と冬の寒空に呟いてみる。


 わかるよ、というか知ってるんだよ。「脳汁を垂れ流す動物」ではいけないことは。

 でも、もうちょっとそれを、うまい具合に言葉で納得させて欲しいんだよ。そうじゃないと、疲れた僕の心には響かないよ、今日もAV観て酒飲んでスペースで喋って寝ちゃうよ、もう少し頑張ってよ、と言いたいのである。
 まあ、もうちょっと僕も勉強します(続く、かもしれない)