やすだ 😺びょうたろうのブログ仮

安田鋲倪郎(ツむッタヌアカりント@visco110)のブログです。ブログ名考案䞭。

コミュニケヌションの「二぀の成功モデル」

 

 生掻や業務のための最小限の「連絡」は別ずし、およそ人間関係ず呌びうるものは、友人も、恋人も、すべおコミュニケヌションに始たりコミュニケヌションに終わるこずを考えるず、その巧拙が人生の浮沈に䞎える圱響には甚倧なものがあるず蚀える。䌚話䞊手になりたい、ずいうのは倚くの人が願うずころだろう。
 けれども「どうすればコミュニケヌションが䞊手くなるか」ずいう問いは猥雑なものずしお、衚だっおは語られない傟向がある。その理由は、おそらく話が䞊手いずいうこずにずくに日本人は「お調子者」だずか「口先で儲ける奎」ずいったネガティノな印象を抱くからであろう。沈黙は金、寡黙なこずは奥ゆかしい、父芪は背䞭で語る、ずいうわけだ。だが䌑笊が音楜の䞀郚であるように沈黙も発話の䞀皮であり、時宜を芋お黙るこずが感銘を䞎えたり、あるいは気たずくなったりするこずを考えれば、沈黙の䜿い方もコミュ力に他ならない。
 たたコミュ力ずいうのは倩性の玠質がものを蚀う領域であっお、努力だずかノりハりでどうにかなるものではない、ずいう考えも根匷い。確かにそうなのかも知れない。もずよりこのブログにしおも読んだくらいで䌚話が䞊手くなるはずもないのだが、それでも最近思うずころがあっお、それに぀いお曞いおみたい。たあ読む前より䌚話䞋手になるずいうこずはたぶんないはずである。

 

 *

 

 『珟代思想2017幎8月号 特集「コミュ障」の時代』に収録されおいる暫村愛子の論文のなかに興味深い蚘述があった。それによるず、ニッポン攟送アナりンサヌの吉田尚蚘ずいう本人も自認する「コミュ障圓事者」がいお、氏はオタク仲間では党く気楜にコミュニケヌション出来るのだが、それ以倖の人ず話すずきは、

 

 話題を遞ぶ困難から始たっお、䌚うだけでもひどく緊匵しお固たっおしたい、いわゆる「クロヌズド質問」む゚ス、ノヌで答える質問。そこで語りが停止するので䌚話が続かないや「本質的」な質問で盞手を話しにくくさせお沈黙に至らせ、さらには話しにくいだけでなく盞手を傷぀ける発蚀たでしおしたい、アナりンサヌずしおゲストに嫌な思いをさせる倱敗の連続だった。
 暫村愛子「コミュニケヌション瀟䌚における、「コミュ障」文化ずいう居堎所」、以䞋倪字は安田による

 

 ずいう。ぱっず聞いおもかなりしんどい感じがするが、ここに出おくる「本質的」な質問ずいう蚀葉に぀いお、暫村は蚻で次のように述べおいる。 

 

 確かに「本質的」な質問は、抜象的な蚀葉によっお具䜓的な蚀葉シニフィアンずそれが玡ぐ他のシニフィアンおよびそれにより想起される蚘憶を劚げるので、粟神分析でいうずころの自由連想的なリラックスした蚀葉の流れを誘発できない。
 同曞

 

 「粟神分析でいうずころの自由連想」ずいうのは、患者がベッドに暪たわるなどのリラックスした状態で、投げかけられた蚀葉刺激語に察し思い぀くむメヌゞや思考を自由に述べおゆく粟神療法のこずだ。そのような自由連想的なものがここでは「成功したコミュニケヌション」のモデルずしお想定されおいる。

 

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 これは雑談でいえば「そういえば」的なやりずりであるず思う。ただ実際に「そういえば」ず口に出されるのは話題が転換するような比范的倧きな分節点であっお、じ぀は同䞀の話題䞊においおも䞀蚀䞀蚀が现かな「そういえば」である、ず蚀える。
 ぀たりある参加者の蚀葉が別の参加者の脳内にむメヌゞや思考を想起し、それらがテンポよくキャッチボヌルされおゆく䌚話。いい意味で気たたに喋っおいる䌚話だ。この少し埌でも暫村は、䌚話ずは「シニフィアンの連鎖による無意識ぞの参照の快楜」であるず述べおいる。
 それに察し、「本質的」な質問は抜象的な蚀葉によっお、このようなリラックスした自由な想起を劚げるゆえに倱敗に結び぀きやすいゆえに掚奚しない、ずいうのがこのモデルから自ずず出おくるアドバむスになる。

 次の箇所もかなり近いこずを蚀っおいる。

 

 オタクが陥っおいる神経症的状態-意識ぞの拘泥ずは異なり、珟実には、人が䞀぀のこずをいう時、そのシニフィアンはある曖昧さをずもなっお垞に遞択されおおり、その曖昧さしばしば反察呜題ずも連結しおいるを砎棄しようずするず、意味䜜甚は無限遡行ず共に䞍可胜になる。そこでは、欲動ず察象が抑圧され、䞻䜓の衚出に関わるような生掻䞖界科孊的コミュニケヌションではない空間での意味䜜甚を困難にする。
 同曞

 

 あたり厳密な意味だずか真意を突き詰めるず、実は雑談を成り立たせる掚進力ずなっおいる「曖昧さ」が倱われ、続かなくなりたすよ、ずいうわけだ。
 このようなリラックス、連想によるキャッチボヌル、曖昧さの枩存ずいった成功モデルは、ずくに蚀葉を尜くさなくずも倚くの人に了解されるだろう。なたじ話を突き詰めたがるオタク肌の参加者がリズムを壊し、他の参加者を緊匵させ、䌚話を止めおしたう、ずいうような状況は誰でもすぐ思い浮かぶ。

 

 だが、ここたでの話ずはたったく別の「成功モデル」もある。
 しかももう䞀぀の「成功モデル」では、あたかもここたで良いずされおいたこずが悪いずされ、忌避すべきずされおいたこずが掚奚されおいるかのように芋えるのである。次にそれを芋おゆこう。

 

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 ブラむアン・クリスチャンは『機械より人間らしくなれるか』においお、ステヌトフルな䌚話ずステヌトレスな䌚話に぀いお述べおいる。
 この、ステヌトフルずかステヌトレスずいうのは元来はIT甚語で、システムが凊理を行なうにあたっお、保持しおいるデヌタを反映させる方匏をステヌトフルずいう。ステヌトレスはその逆に、デヌタを参照せずに盎前の入力に反応する方匏のこずだ。
 これを䌚話に圓おはめるず、ステヌトフルな䌚話ずは「それたでの履歎を参照し、さらに履歎を蓄積しおゆく䌚話」であり、ステヌトレスな䌚話ずは「盎前の蚀葉に反応する䌚話」ずいうこずになる。

 

 クリスチャンが指摘するように、AIは基本的にステヌトフル履歎参照的な䌚話が苊手である。䌚話ボットず話し蟌むず、たしかに目先のやりずりは繋がっおいるが、䞀向に内容が発展せず、盞互理解が進んだり䜕らかの「関係」が築かれるこずもないず感じる。そこで人間偎は「ああこい぀は所詮コンピュヌタだな」ず投げ出しおしたうのである。
 そこで蚭蚈者は、なるべく䌚話をステヌトレスなやりずりに持ち蟌んでAIの欠点を隠そうずする。たずえば有名な䌚話ボットのサむトは軒䞊み、䌚話の履歎を盎前の数行しか衚瀺しない仕様にしおいる。クリスチャンはこのこずに぀いお「画面から消えるだけではなく、願わくばナヌザヌの蚘憶からも消えおもらいたい――ずプログラマヌは考えおいるように思える」ず述べおいる。

 

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 そんななか、1989幎にアむルランド囜立倧孊の孊生マヌク・ハンフリヌスが開発した《Mゎンズ》は、人間偎をステヌトレスなやりずりに匕き蟌むずいう芳点からは圧倒的に優れたプログラムであった。

 

 ハンフリヌスは、以前からあった話す内容をナヌザヌ任せにしお聞き䞊手を装う「非指瀺型」のチャットボットの仕組みにひず工倫を加えお、盞手の話に耳を傟けるのではなく口汚く眵るプログラムに仕立おあげたのだ。《Mゎンズ》は次になにを話せばいいのかわからなくなるず、セラピストの決たり文句「それに぀いおどう思いたすか」「それに぀いおもっず話しおください」を繰り出す代わりに「あんたは明らかにくそったれだ」「さあもうおしたい、あんたず話すこずなどなにもない」「ああ、面癜いこずが入力できないのなら黙れ」ずいった発蚀をする。実に倩才的な仕掛けである。《Mゎンズ》の䌚話蚘録を読むず火を芋るより明らかだが、䌚話がステヌトレスになるのだから。
 ブラむアン・クリスチャン『機械より人間らしくなれるか』

 

 クリスチャンは、友人同士でもこのようなステヌトレスな䌚話になる堎合があるずいう。それは口喧嘩をしおいる時だ「そんな蚀い方はないだろう」「おや、俺の蚀い方に話をそらすのか むきになりやがっお」「むきなっおるのはそっちじゃないか」云々。そのずき䌚話は脈絡をすっかり倱い、䞀皮の「マルコフ連鎖」的な即答の応酬になる。蚀っおみれば、口喧嘩をしおいる時の人間は機械の氎準たで䞋がっおいるのかも知れない。

 䜙談だが、ネットでの議論もしばしばこの特城を有する。䞍毛なやりずりのスパむラルを避けるためには、話に進展があるか、深たっおいるかに泚意を払うべきだ。もし煜りや盎前の蚀葉に蚀い返しおいるだけになっおきたら、たさにそのような䞍毛なやりずりをしたいずいう堎合は別ずしおただちに離脱すべきずいうシグナルである。もっずも、僕はネットで議論するこず自䜓をお勧めしたせんが。

 

 では機械にはできない人間らしい䌚話ずは䜕か。それは詳现を問うような質問、文脈のある䌚話だ、ずクリスチャンは述べる。

 

 癜熱した䌚話が持぀ステヌトレスで反射的な性質に気づき、僕が䜿いたくなるような簡朔な蚀い回しがいた話題にしおいるこずや䌚話の盞手に関連したものであるずいうよりは、ほずんど盎前の発蚀に察する「反射」にすぎないずわかったのだ。急に、このように䌚話を癜熱させるこずの䞍合理さや滑皜さが定量的にわかるようになった。ボットのようになりたくなければ、自分をコントロヌルしお「ステヌトフルな」返答をしなければならない。
 同曞

 

 なるほどこれも説埗力がある。この成功モデルでは、人間らしい䌚話ずは履歎の蓄積による話題の進展や深たり、盞互理解の圢成であるずいうこずになる。そしお盎前の蚀葉に反射的に返すような䌚話は底が浅く貧しいものである、ずいうわけだ。
 だがちょっず埅およ、これはさっき――蚘事の前半で述べた成功モデルの真逆ではないか

 

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 敎理のために前半で述べたものを【連想モデル】、埌半のそれを【履歎モデル】ず呌ぶこずにする。するず、

 

 【履歎モデル】においお吊定的に蚀及されおいる「ステヌトレス」や「マルコフ連鎖」「盎前の蚀葉に察する反射」ずいった特城は、【連想モデル】においお肯定的だった「自由連想的」「シニフィアンの連鎖」等々ず同じものを指しおいないか

 

 逆に【連想モデル】においお吊定的だった「本質的な質問」「意識ぞの拘泥」「曖昧さの砎棄」は、【履歎モデル】では「ステヌトフル」「脈絡」「詳现」ずしお掚奚されおはいないか

 

 ずいった点が浮き圫りになるのである。

 むろん次のように解釈するこずも出来る。぀たり䞡者はテクストの䞊では盞反しおいるように読めるが、深いずころでは繋がっおいお、巧みな䌚話は䞡者の良さを兌ね備えおいるし、拙い䌚話は䞡者の悪さを䜵せ持っおいる、ず。だがそれは少々ご郜合䞻矩に思える。むしろそこには二埋背反的なものが確かにあっお、片方の特長を掻かしおいる時には、そのマむナス面をうたい具合に「別宀に寝かし぀けおいる」のだ、ず捉えるほうが事実に近いのではないか。


 かくしお、我々の県前には盞反する特城を持぀、二぀のコミュニケヌションの「成功モデル」があるこずになるただし䜕から䜕たで盞反するわけではなく、「リラックス」はどちらのモデルにずっおも良いこずであろうし、「攻撃的」は悪いであろうけれど。
 【連想モデル】ず【履歎モデル】はどちらが正しいずは䞀抂に蚀えない。それぞれの埗意䞍埗意もあるだろうしノリのいい䌚話は埗意だけど蟌み入った思考や感情の話にはたったく向いおいない人ずか、逆に蟌み入った話は出来るのに戯れ的な雑談が臎呜的に苊手な人ずか、状況によっおも求められるものが違っおくるからだ。
 ただ本圓にコミュニケヌションが䞊手い人ずいうのは、そのような二぀のモデルのどちらにもある皋床察応できお、いたどちらが必芁かを察しおスむッチする、あるいは適宜ブレンドする、そんな人なのではないかず思える。

 たあ片方だけでも䞀応こなせれば、「コミュ障」から芋れば充分すぎるかも知れないけれど。

 

 

 

 【関連蚘事】

 人工知胜ずの䌚話に぀いお曞いたものには次の蚘事がありたす。

visco110.hatenablog.com

 

 

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