やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

ピラミッド・パワーと蚤

 

 一九七〇年代の「ピラミッド・パワー」ブームについて、偽科学批判で知られるテレンス・ハインズは次のように回想している。

 

 ピラミッド・パワーとは、ピラミッドの形自体が魔術的であり、神秘的なエネルギーとパワーで満たされている、という考えだ。トースとニールセンの著書『ピラミッド・パワー』によると、ピラミッド・パワーは「未来の燃料」だという(本の扉より)。キングの『ピラミッド・エネルギー・ハンドブック』の裏表紙を見ると、ピラミッドが「あなたの超能力を深化させ」、「栽培している植物を成長させる」とほのめかされている。

 (中略)

 私の記憶では、新聞の日曜版の付録にピラミッド型の犬小屋の広告があって、犬にノミがたからないことを保証していた。

 (テレンス・ハインズ『ハインズ博士再び「超科学」をきる』)

 

 なるほど神秘的なパワーによって、人間の超能力は深化し、植物は成長し、犬には蚤がたからないというわけだ。それは素晴らしいことだがちょっと待った、なぜピラミッド・パワーは蚤には恩恵を与えてくれないのか?

 また当時、ピラミッド・パワーは「人間を健康にし、食品などの腐敗を防ぐ力がある」と言われていた。腐敗とは通常、微生物の活動によって有機物が分解される現象だ。ということはピラミッド・パワーは微生物にとっても都合の悪いパワーであるわけだ。

 人間と犬と植物には有益だが、蚤や微生物にとっては有害(?)なエネルギーとは一体何なのか。

 そうやって考えると、植物は植物でも雑草はどうなのかといったことを問い質したくなる。果たして、ピラミッド・パワーを受けた雑草は成長するのか、それとも枯れてしまうのか? ちなみに僕は、おそらく枯れるのではないかと思う。

 ようするに、ピラミッド・パワーとはひじょうに「人間に都合のいい」パワーなのだ。

 

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 *

 

 先日ふと、往年のベストセラーである『トンデモ本の世界』を読み返していたところ、この「ピラミッド・パワーと蚤」のような、きわめてご都合主義的な本が紹介されていた。関英男『高次元科学』という本なのだが、『トンデモ本の世界』の紹介によれば、

 

 関博士は、人類が心を改め、「優良人種」に進化したら、どんな素晴らしい時代が訪れるかを説く。犯罪や戦争がなくなるのはもちろんだが、地震や火山噴火などの天災もなくなるという。天災は人間に争う心があるから起きるのであり、オリンピックの開催される年には災害が多いのだそうだ。人間が地上に現れる前は、地震や火山噴火はなかったのだろうか?

 また、大気の性質が変わって、猛獣や毒蛇は生存できなくなるという。関博士の思い描く理想の世界では、ライオンやハブは生きることを許されないらしい。

 

 とのことである。

 オリンピックの開催される年には災害が多い! すわ、令和二年のコロナ禍を予見していたのか!? ……という部分ではしゃいではいけない。天譴論はひじょうに問題の多い考え方であり、当ブログとしては強く否定するものである。

 

 言いたいのはその先、人類が心を改めた未来においては大気の性質が変わり、猛獣や毒蛇は生存できなくなる、というくだりだ。

 またしてもさまざまな疑問が首をもたげる。ライオンが生存できないとしたら同じネコ科のイエネコはどうなのか? サーバルキャットは? 小さいからセーフだとすると、ユキヒョウくらいになるとアウトなのか? また、オオカミは「代表的な猛獣」に数えられるが、もともとは全部オオカミであった犬はセーフなのか? 大型犬は? つまるところ、それはどのような性質の「大気」なのか?

 

 ……しかし「はい笑ってくださいね」とお膳立されている、しかもずいぶん昔の本に今さらツッコミを重ねるのもイケてるとは言い難い(ちょっと反省)。ここでは、述べられている「大気」の性質がピラミッド・パワーときわめて類似していることが了解されればそれでいい。つまりどちらも超自然的なパワーであるにもかかわらず、やけに唯々諾々と人間様の都合に従うということである。

 

 *

 

 ただ、こうした話は確かにバカらしく思えるが、実は各地の伝統宗教にもほとんど同じような記述が見られることには留意しておきたい。

 たとえばキリスト教の天国からして、「ヨハネ黙示録」の記述によれば、痛みや苦しみは天国には存在しないことになっている。ということは、猛獣や毒蛇や蚤は天国には存在しないか、存在したとしてももはや人間にとって脅威である性質は持っていないことになる。

 仏教の極楽浄土にしても、『浄土三部経』や『阿弥陀経』に「一切の苦はなくただ楽のみがある」という記述があって、事情は同じである。

 

 一方、地獄のほうは猛獣やら毒蛇やら、そういった動物に満ち満ちている。

 『バカヴァット・ギーター』によると、地獄には猛獣や毒をもった動物が邪悪な人間たちの拷問に使用されるし、ゾロアスター教の地獄においても、毒をもった爬虫類にむさぼり食われるという責苦が存在する。また北欧神話の地獄であるニフルハイムの入り口は巨大な蛇の死体でできており、その頭からは毒が吐き出され、その毒は川となって、地獄へ墜ちてきた者たちは毒の川に沈められる。

 つまり伝統宗教においても猛獣や毒蛇はだいたい天国には存在しないことになっており、それらの生き物は地獄のほうにゾーニングされているのである。

 

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 ということは、人間が理想の世界や地獄を想像するさいにはどうしても「そうなってしまう」のであり、それは人類が誕生してからずっと、出来ることなら猛獣や毒蛇(とか蚤)のいない世界で暮らしたい、と願ってきたことを反映しているのだろう。

 いや、そもそもサルの段階から。イーフー・トゥアンは次のように述べている。

 

 人間がヘビを嫌う気持ちは先天的なものだろうか、それとも後天的なものだろうか? おそらく人間にもっとも近い類人猿の研究がその答えを与えてくれるだろう。一八三五年にロンドン動物園で行われた実験によれば、チンパンジーの子供はヘビを見てぎょっとしたという。一九六八年、J・ヴァン・ローウィック・グッドールは、すべるように這ってゆくヘビや、死にかけているニシキヘビを見て野生のチンパンジーが恐怖を示した場面を観察している。動物行動学者の指摘によれば、旧世界ザルや類人猿が爬虫類を見て恐怖を感じることは明白で、いったんその恐怖感が身につくと、たとえ長い間爬虫類を見なくてもかんたんには消えないという。

 (中略)

 あるテレビ局が、四歳から一四歳までのイギリス人の子供、一一,九六〇人に対し、いちばん嫌いな動物は何かという質問をしたことがある。その結果はヘビが断然トップで、二番目がクモ、その次がライオンやトラなどの正真正銘の危険な大型獣だった。

 (イーフー・トゥアン『恐怖の博物誌』)

 

 したがってピラミッド・パワーで犬に蚤がつかないことにしても、どうしても嘲笑したくはなるが、よくよく辿れば「苦なき生活への希求」というヒトの普遍的な心性であり、同時に伝統的な宗教感覚を引き継いでいると言えるのではないか、と思えてくるのだ。ピラミッド型の犬小屋は、そうした心性の現代化・大衆化された表象の一バリエーションなのだろう。

 

 ああ、惨めで悲しみに満ちた人生よ

 戦いや、死や、飢えがわれらを襲い

 寒さ、暑さや、闇がわれわれをさいなむ

 蚤や蛆やもろもろの虫が攻めたて

 われらの肉体は見るも哀れなさま

 この命も長くはあるまい

 (ジャン・メシノ〔十五世紀の詩人〕)

 

 *

 

 最後にメモ的に書き添えておくと、今回見てきたような伝統宗教やオカルト、ニューエイジ思想に見られる発想はすべて「人間中心主義」であり、現在ではそうした人間中心主義に対し、生態学だとかディープエコロジー側からの批判もある。

 また、我々は素晴らしい動物学の成果によって、猛獣や毒蛇や蚤たちの「豊かな」生活-世界についても着実に理解を深めてきたのであり、まあ蛇なんかはペットとしてもけっこう人気だったりするので、ここまで見てきた心性-信仰はいかにも旧弊なもののように思えるかも知れない。

 だが一方で、ある程度の人間中心主義は致し方ないところがある。言い方を変えると、人間中心主義の解体には自ずと限界がある。というのも、じゃあ猛獣や毒蛇は「付き合い方」を学べばやってゆけるとして、蚤や虱やダニや白蟻となるとかなり難しいものがあるし、アニサキスや病原菌やウィルスとなると、生けとし生けるものとしての尊厳、などと言ってられないことは明白で、とにかくどこかで線引きをし、人類を優先させていくしかない。

 人間中心主義についての考察は、また稿を改めて書くかもしれない(書かないかもしれない)。