やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

かぎりなく未解決に近い事件/名誉・評判について

 

 延慶三年(1310)夏、法隆寺の蓮城院(れんじょういん)に強盗が押し入った。
 当時はこうした場合に国の警察権力が解決するということは望めず、当事者である法隆寺が捜査に乗り出したが、誰が犯人なのか皆目わからないので、周辺十七の村に「落書起請」(らくしょきせい)を送った。
 これは当時しばしば行なわれていた犯人検挙の方法で、近隣の住民に犯人について目撃したこと、あるいは噂されていることを問うというものだ。嘘を書けば神罰が下るということで皆、知っているかぎりのことを書き送った。
 落書では、いちおう犯行そのものを目撃したとか盗品を隠しているところを見たという類いのものを「実証」といい、たんに誰が犯人であるという噂を聞いたというのは「風聞」といって、その重みには差がつけられていた(「実証」といっても証拠というより証言にすぎないことに留意されたい)。そしてこのたびの事件では「実証十通」または「風聞六十通」が集まれば犯人と見做す、とした。
 集まった六百通の落書を開票した結果、意外なことに定松房(じょうしょうぼう)と舜識房(しゅんしきぼう)という、いずれも法隆寺内の僧侶が犯人という結果が出た。
 通常ならこれで問答無用、二人を捕らえて処刑すれば終わりなのだが、定松房と舜識房も武装した手勢を集め、捕縛のために集まった衆とにらみ合いが起きた。
 そこでどうにもならず、前代未聞なことに寺は「落書起請」を覆し、定松房と舜識房の言い分を受け容れるかたちとなった。その言い分とは、「自分たちは犯人ではない。真犯人は二人で捕まえて引き渡します」というものであった。

 

 かくしてその五ヶ月後、定松房と舜識房は初石八郎という男を捕らえて差し出した。
 また二人は、初石八郎が真犯人である証拠に蓮城院から盗まれた品物を一緒に提出したので、これで間違いないということで初石八郎は翌日斬首され、三日間晒し首となった。
 そして二人の僧は懸賞金である二十貫文を与えられ、事件は落着となった。

 

 以上は『嘉元記』に記されている事件を僕なりに要約したものである。

 なお事件の委細についてネットで読めるものには以下の論文(PDF)がある。

 https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=36648&file_id=15&file_no=1

 

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 東京国立博物館デジタルライブラリーより

 

 だがこれを読んで、果たして納得ゆく者がいるであろうか。歴史学者の酒井紀美は次のような疑問点を挙げている。

 

 ・なぜ「落書」によってえられた結論が、「実犯」とされた当の二人の「不実なり」という主張によって簡単にくつがえされてしまったのか。

 

 ・初石八郎は本当に連城院へ入った盗人だったのか。

 

 ・突き出された翌日には処刑されてしまったが、尋問や白状があったのかどうか。

 

 ・盗品も一緒に引き渡されたから八郎が真犯人だったとされているが、「実犯」とされた二人が盗んでいたとすれば八郎の身柄とともに差し出すことは可能ではないのか。

 

 これはまったくそのとおりで、こんにちの証拠裁判主義の観点から見た場合、初石八郎が真犯人であるという根拠はほとんど、いや全然ない。
 ただ念のために言っておくと、いまの基準では二人の僧を有罪に出来るかどうかも微妙なところではある。科学捜査のない時代で、現場に付着した指紋だの衣服の繊維だのという手段も取れないし、唯一の証拠である盗品は、「真犯人」とともに差し出すことによってうまい具合に隠滅しているからである。
 ただ初石八郎とともに証拠品を差し出すことで当時の人は欺けたかも知れないが、歴史の眼から見た場合にはむしろ墓穴を掘っているとは言える。もし八郎が真犯人「ではなかった」場合、盗品を差し出せたのはこの二人が真犯人であったから以外に考えられないのである。

 

 さてこれ以上のことは言えないので話を進めるが、実を言うとこのブログで書きたいことは事件の謎解きではない。このブログのテーマは「噂、評判がいかに人の命運を左右するか」についてである。

 

 *

 

 というのも、ニコル・ゴンティエ『中世都市と暴力』によれば、中世ヨーロッパ社会においても上記の事件の経緯と似たようなことがどうやらあったのである。
 ゴンティエによれば、中世の都市生活においてはギルドや兄弟団、隣組といったものに参加することが社会の成員となるうえでひじょうに重要であり、そのため評判はかけがえのない「身分証」であった。したがって相手の評判を落とす行為、すなわち中傷や侮辱は「彼が共同体のなかで暮らしてゆく権利に異議を唱える」ことであり、「中傷的言動の打撃により名誉を失った者は(中略)都市という闘技場で、あらゆる種類の暴力に身をさらすことになった」のである。

 

 そんなこともあって、侮辱された場合は必ず激しい罵り合いに発展したし、多くは物理的暴力に流れるのが彼らのつねであった。なぜなら侮辱は、ゴンティエいわく「もしすぐに打ち消されなかったら、侮辱に含まれる主張が現実味を帯び、真実となった」からである。
 この原則は、事件の犯人を捜すといった場面でも適用された。ゴンティエはすぐ後にこう書いている。

 

 「盗賊」、「盗人」、「追放者」、あるいは「人殺し」といった言葉を含む侮辱は、より一層の危険をあきらかにするものだった。なぜならそれは、法的な処罰をまぬがれ、再犯の恐れのある隠れた犯罪者を人々の前に暴くからである。
 (中略)
 誰かを「盗賊」呼ばわりすることは、その者に極度に厳しい裁きをもたらすことになった。また「追放者」と名指すことは、さらにずっと陰険だった。なぜなら告発があいまいなときには、さまざまな疑いを引き起こしたからである。追放刑になった者は誰でも当然、盗みか、強姦か、殺人を以前いた町で犯したはずであり、ときには再犯をもくろんでいることもあるからである。追放者は信用も法もない人間の代表であり、その暗い過去のために、このような人間との交際は善良な市民にとって危険なのだった。
 (ニコル・ゴンティエ『中世都市と暴力』、太字は安田による)

 

 二つの点に留意したい。
 ひとつは「誰かを盗賊呼ばわりすることは、その者に極度に厳しい裁きをもたらすことになった」という文言。これはうっかりすると「盗賊呼ばわりした者」に厳しい裁きをもたらす、つまり名誉毀損的な意味に受け取りがちだが、おそらく著者は「盗賊呼ばわりされた者」に厳しい裁きをもたらすことになったと言っているのである。なぜなら先程も述べたように、中世社会においてはしばしば「侮辱に含まれる主張が現実味を帯び、真実となった」からである。
 このことは、さきほど日本中世において出てきた「落書起請」にも繋がる。そもそも噂や評判に頼る前にどうして証拠裁判主義を採らないのかという話だが、けっきょく洋の東西を問わず中世の水準ではそれが不可能だったということに尽きる。たんに科学技術がどうのといった話ではなく、動員力、速度などあらゆる面で「それではおっつかなかった」のである。
 鎌倉幕府からして法隆寺の「落書」のような手法を採用していた。弘長二年(1262)に執権北条長時らが六波羅探題に宛てた命令によれば、

 

 「悪党張本」として「人口に乗るの輩」、つまり悪党たちの中心的存在であると人びとに「うわさ」され、多くの人の口にのぼるような者については、それを聞きつけたならばすぐに、その身柄を捕らえて、鎌倉に連行するように、というのである。
 (中略)
 「御成敗式目」の段階では、「国人等が差し申し」、その身を鎌倉に召し進めて、そのあいだに国で悪党行為があるかないかによって、悪党かどうかの判断を下すとしていた。ところが、だんだん後になればなるほど、悪党の活動は活発になり、幕府はその取り締まりに追われるようになる。アリバイをたしかめたり、明白な証拠が出てきてはじめて断罪するというのでは、悪党の禁圧はおぼつかない。しかも、悪党の活動はしきりに人びとの口にのぼっている。「風聞の説」に比重をかけざるをえない状況になってきたのである。
 (酒井紀美『中世のうわさ』)

 

 さてもうひとつは、「盗賊」「人殺し」と同じ程度に「追放者」が警戒されていたことだ。
 たしかに今日でも田舎では、よそ者といえば多少はいぶかしい顔をされる事もあるかも知れない(そんなにあるとも思えないが)。しかし中世社会においては、よそ者に対してそもそもお前はなぜ元々いた共同体を出てきたのか、よほどその共同体にいられないことをしたに違いない、という強い疑いが生ずるのである。

 これもまた警察権力が及ばないことが大きな原因だろう。そもそも他人に対する安心感は制度によって担保されている面がある。つまり何かやったらすぐ捕まるからこそ我々はよそ者をみてもただちに警戒せずに済むのであって、けっして現代人が中世の人よりモラルが高いから安心できるわけではない。あるいは言い方を変えれば、現代人のモラルは確かに上がったが、そもそもモラルとは制度によって善行や悪行への誘因が上がったり下がったりするその反映なのである。

 このことを社会心理学の語彙で言うとこうなる。

 

 山岸(安田註:俊夫)によれば「相手の自己利益の評価に根ざした」行動への期待が安心である。罰せられるという自己利益に反する行為を相手は回避したがるだろうという期待に基づき、相手が悪意のある行動はしないだろうと信じるのである。ここで予測される「罰」は制度的に決まる。

 (『New Liberal Arts Selection社会心理学』)


 だが、そうしたメカニズムが働かない中世の状況は「悪評のスパイラル」ともいえる。

 共同体から追放された者が、その追放されたという事実でもって新しい共同体にも受け容れられないとするならば、自ずと流浪の生活を送るしかない。乞食か詐欺師か盗賊か、いずれにせよそんな者は遠からぬうちに絞首刑になるか野垂れ死にするのが目に見えている。実際には諸文献が伝えるように故郷喪失する理由というのは様々あって、とくに貧農が飢饉や旱魃、物価高などでやむなく土地を手放す例、また解雇された傭兵など、必ずしも犯罪からスタートするわけではないのだが……

 

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『放浪者の書』(1510頃)より、流浪の乞食

 

 伝統社会における名誉・評判の問題については、他にも十八世紀のアメリカやイヌイット社会について書いたことがあるので、興味があれば文末の関連記事をお読み下さい。

 

 *

 

 さて以前のブログ(「言葉の暴力について」)では一言だけ触れたが、このように前近代における名誉・評判の問題の過酷さはあきらかであるにしても、現代社会もかたち変えて名誉・評判の問題がクローズアップされて来ているように見える。それもここ五年十年の話として。
 つまりメルカリで物を売り買いする時、スマホで手頃なランチを探す時、DMでデートに誘われた時、家具や家電を選ぶ時、新作ドラマ(アニメ、ゲーム、映画etc…)のどれにコミットするかを決める時、知らない番号から電話がかかってきた時、なんか怪しい広告を見た時など、我々は朝から晩まで頻繁になんらかの評判を参照したりされたりしている。
 確かにそれらの一つ一つは社会生活の存続や生命を左右するものではない。だがこれほど生活の全域に評判が浸透した社会というのも人類史上なかったであろう。そうなると、必ずしも現代人はかつてに比べて名誉や評判から解放されたとは言えないのではないだろうか。それは透明な膜のように、ほとんど意識されることもなく、我々の社会をくまなく覆っている。
 そのことを嘆くか、そんな社会に異を唱えるか、そうではない場を確保するか、それとも割り切って、ゲーム的にある程度は名誉や評判を維持・追究してゆくか、それはその人しだいである。

 

 

 

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